
昨年の夏、ペルセウス流星群を見た。家族、友人と誘い合って、2台の車で近くの山に登り、ゴザに寝ころんで流れ星に酔いしれた。
青春の一夏、夜の浜辺で見た流れ星が忘れられず、また疲れた心を癒してくれる宇宙の物語に魅せられて、夜の犬の散歩では、畦道を歩きながら、いつも空を見上げてきた。しかし、街明かりで天の川さえ定かでない空には、飛行機の点滅は見えても、流れ星にはしかと出会えぬものである。そんな私にも時が満ちて、ついに流れ星を全身に浴びる日が恵まれたのである。
その夜、私の車に乗った娘たちは、流れ星に何の願いをかけようかと楽しそうに話していたのだが、いざ山に到着し、寝ころんで空を見上げたとたん、星は娘たちの願いなどおかまいなく、いとも簡単に流れたのである。娘たちは「あっ、何も言えなかった」と身構えたものの、またもや「あっ」と星は流れ、いつしか願いのことは忘れて、天空を一瞬にして駆け抜ける流れ星を数え始めた。
結局、その日は70ほどの流れ星に出会ったのだが、その中のいくつかは、天空いっぱいに大きく弧を描いて流れていく見事なものであった。家族同様にして仏法を共に学んでいる友人が、「60年生きて、こんな美しいの、はじめてや!」と感嘆の声を上げれば、間髪入れずにその孫が、「私も6年生きて、はじめてや!」と、和した。そのやりとりに一斉に笑った私たち夫婦も、また中学生の娘たちも、それは皆「はじめて」の感動であった。もう、人間の願い事など託す必要のないほどの、深く満ち足りた一瞬であった。
ところで、こうした一瞬の流れ星は、実はそのまま、私どもの一生の姿をあらわしているのではあるまいか。咽頭ガンで声を失った友人が、娘を嫁にやる心境を、「たった今、生まれた子どもが嫁に行く」と書いたことを思い出す。私だって、裏の田圃の水路でフナやドジョウを追いかけたのは、昨日のことでなかったか。人生とは、たとえ100歳まで生きても、それは一瞬の出来事なのであろう。
旅に病で夢は枯野をかけめぐる
と詠んで、その生涯を終えた芭蕉には、
おもしろうてやがてかなしき鵜船哉
という句があるという。テレビをつければ、「人生、楽しまなきゃ」と、グルメ・温泉・旅行にと浮かれているが、そこには、時の流れを信じられない現代人の虚無がのぞいていないだろうか。
流れ星を見た感動は消えることなく、今も私の心に満ちている。なぜ、なんだろう。それは、一瞬の流れ星に、宇宙の全歴史が凝縮されていたからでなかろうか。一瞬といっても、消えて無と化してしまわない一瞬、それこそ「永遠の今」とでもいうべき一瞬だったのである。
老いぼれて死にていくこと今は我
弥陀の回向の大行と見ゆ
と、歌われた藤原正遠先生は、
あや雲の流るるごとく我がいのち
永遠のいのちの中を流るる
とも歌われた。
私の一生は、はかなく消えゆく一瞬なのか、それとも、永遠のいのちの輝きとしての一瞬なのか、……。今年もまた、ペルセウス流星群の季節がやってくる。