金子みすゞの詩である。「お母さんはやさしいの」から、「仏さまはさびしいの」への転換がすばらしい。小悲から大悲への転入といってもいい。
仏さまの慈悲を大悲心という。それは人道的な愛の心、たとえばお母さんのやさしさ(小慈悲)をも超えた究極の愛の心であるから、同体の大悲ともいわれる。
私たちは、どんなに目をこらして見ても、人の苦しみや悲しみをそのまま共感することはできない。その人の表現やしぐさから、想像するだけである。いわば、人の痛みやさびしさをそのまま理解することができないという自覚が、やさしさの原点なのであろう。
私のさびしさは、私ひとりだけのさびしさではなかった。共にさびしさをになってくださるお方がおられる。衆生の苦悩を自己の苦悩として同感する世界を、『歎異抄』は「浄土の慈悲」と表現されている。
それにしても、みすゞさんのこの感性の豊かさはどこから生みだされたものであろうか。彼女には「お仏壇」という作品もあり、
忘れていても、仏さま、
いつもみていてくださるの。
だから、私はそういうの、
「ありがと、ありがと、仏さま」
と詩う。
みすゞさんは、幼くしてお父さんと死別している。彼女にとって、父と会えるのはお内仏(お仏壇)に向かう時であり、お念仏申すことだけが父との対話の時であった。
この春、寺の婦人会の有志など二十人ほどで、金子みすゞのふるさと長門市仙崎を訪ねた。みすゞ記念館を見学し、遍照寺(金子家お手次の寺)にお参りした。ご住職のお話によれば、みすゞさんの祖母ウメさんが篤信の念仏者で、ご法要にはいつも孫娘をつれて聴聞されておられたという。
仙崎という町は、日本海に面した漁村であり、小さな集落の中に浄土教系のお寺が多い。春雨にぬれながら“みすゞ通り”を歩いていると、横丁からスーッとバイクが近づいてきて、笑顔で会釈して行く。静けさと、そこに生きる人々と……。雨しずくをはらいながら、ああそうなのかとわかった気がした。風土も金子みすゞの原風景なのだと。