聖公会の伝道者でもあった山村暮鳥(一八八四〜一九二四)の「りんご」という作品だ。若いころは斬新で人を驚かす作風だったが、晩年は平明で親しみやすい作品が多くなる。信仰も神を仰ぎ見る姿勢から、東洋的な世界にひかれていく。没後に刊行された詩集「雲」などには、仏教や老荘思想への共感が綴られている。
「かかえきれない」ほどの気持ちとは、言葉では表現できない宗教的感動のことだろう。禅なら不立文字とか言語道断としかいえないこと。キリスト教なら「ハレルヤ」、浄土教なら「南無阿弥陀仏」と思わずとなえたくなる衝動である。こちらの意志を超え、何かに言わされている、としか思えない一瞬かもしれない。しかも、それは特別な場所や日時、あるいは難行苦行の結果ではない。日常の、ごくありふれた、目の前に転がっている小さなリンゴとともにある歓喜なのだ。
この感動は遠くに求めたからといって得られるものではない。空の高くや、祭壇の奥や、森の中に鎮座しているのでもない。外ではなく、自然を受け入れ、わが心を見つめることなのだ。《信者よ、まづその神をすてて汝自らをみいだせ、汝自らによつてまことの神は證しせられる》(「驢々馬々」)とも述べた暮鳥は、キリスト教界では異端扱いされて失意の中で病没する。
むしろ、仏教の「脚下照顧」や「回光返照」、あるいは『観無量寿経』の「汝いま知れりやいなや、阿弥陀仏、此を去りたまうこと遠からず」に近い宗教観だったように、私は思う。