日本現代詩人会の会長も務めた村野四郎(一九〇一〜七五)による「過失」という作品だ。一九五四年の詩集『抽象の城』に載っており、サルトルらの実存主義に共鳴していた時期らしい。
平穏な、あるいは退屈な日々を過ごしていて、突然、小さな悪事とか間違いとか、遠い昔の古傷を思い出すことがないだろうか。そんな体験がなくても、自分自身の末期を思い浮かべてみるなら、思わず「ギャッ」と叫びたくなるだろう。ヘビのような、いや、もっと得体の知れない、不気味な何かを踏みつけることになるからだ。
この詩人は東京に生まれ、慶大経済学部を卒業して一流企業に入り、のちには会社を興して専務や会長まで務めている。履歴を眺めるかぎり、特別な破局も挫折もなく、順風万帆の人生のように見える。しかし、そうした社会的条件とは無関係に、階級や貧富や賢愚を超えて、よくよく耳を澄ますと、闇の底から「いたましい悲鳴」はきっと聞こえてくるものだ。
それは、人間がそもそも、無限の時空と空間の中で、何の理由もなく、ただ浮いている存在だからである。そのことを『仏説無量寿経』は《人、世間愛欲の中に在りて、独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る》(独生独死、独去独来)と説明している。ある意味では悲劇的で過酷な運命ともいえるが、そこからまた、宗教の素晴らしい世界も開けてくるのである。