西条八十(1892〜1970)の「三七日」という6行の作品だ。31歳だった詩人は関東大震災の直後、3歳の次女・慧子を疫痢で失う。葬式も済んで、弔問に訪れる人も少なくなった21日目ごろの夫婦の会話である。
名前のとおりに、きっと「智慧」の早かった子だったろう。夫が「あんまり利口なので、神さまも近くに置きたくなったんだよ」とつぶやくと、妻も黙ってうなずく。そんなことを本気にしているわけでもないが、互いに相手を思いやり、委細はあえて問わないのだった。
伝記によれば、詩人はこのころ、旧約聖書の「ヨブ記」も読んでいたそうだ。神と悪魔とが、篤信者ヨブに不幸を次々と与えて試す物語だ。必死に耐える古代ユダヤ人夫婦の姿勢に、共感することも多かったに違いない。
話す側も聞く側も、偽りと知りつつ……というところに、大人らしさを感じないだろうか。もちろん、当初は泣き喚いただろう。しかし、時間とともに、その悲しみを「天国」とか「浄土」といった神話に昇華させていく。そこに、不幸せを乗り越えていく人間の優しさがある。
仏教では、こうした物語化を「方便」といっている。「うそも方便」という俗言もあるが、本来は「衆生を導くための巧みな手段」という前向きな言葉だ。こうした場面で「あの世なんか、あるわけないよ」などという必要はないのである。