広報紙『サンガ』
TOP > 広報紙『サンガ』 > バックナンバー > インタビュー
バックナンバー
インタビュー
 ヤドランカさんに聞く
 ララバイ 民族も国境も越えて
写真イメージ
 アドリア海の海を見て育った。

ヤドランカとは「アドリア海の子」という意味である。
旧・ユーゴスラビアでは国民的歌手だった。サラエボのオリンピックでは公式テーマソングを歌った。

そのスタジアムは内戦によって今は巨大な墓場と化している。

ヤドランカさんの澄んだ歌声は、憎しみで分断された故国と世界をつなぐララバイ(子守歌)なのかもしれない。


 砧公園に近い自宅のマンションのベランダに立つと大きな木がいっぱい見える。故国のサラエボの自然と似ている。サラエボは、東西の文化が混在して美しい調和をなすコスモポリタン都市だった。父はセルビア人、母はクロアチア人。生後まもなく両親が離婚。アドリア海沿岸の町にある母方の親戚を転々として育った。

 「おばあちゃんとか母の親戚とかあちこちに住んで、その家その家で文化も違うし、料理も違う。話も歌もお祈りも違うんです。まるで郵便のパッケージみたいでした。おばあちゃんとキリスト教会へ行ったり、おじいちゃんとユダヤ教会へ行ったり、また違う所でイスラム教会へ行ったりしてね。そのつどスイッチして、だからとても気を使う子どもでしたね」

 16歳のとき、叔父が率いるジャズバンドでベーシストとしてヨーロッパ長期ツアーに参加した。それが音楽活動の始まりだった。西ドイツ、スイス、イタリア、スペイン、フランス……、バンドは人気があった。だが、「心と頭が空っぽになっている」ように感じて、21歳のときバンドを降り、サラエボの高校へ復学。音楽活動を続けながら、大学で心理学を学び、さらに美術大学で絵画を学んだ。84年のサラエボの冬季オリンピックでは公式テーマソングを歌い、故国ユーゴでは国民的歌手となった。

 同年、初来日。美術教師だった母の影響で、高校時代から広重の浮世絵や俳句にひかれていた。一茶や子規などの句による「俳句」という曲も作った。88年、二度目の来日。アルバム作りの長期滞在中に母国の内戦を知った。信じられない思いだった。内戦はボスニア・ヘルツェゴビナに拡大し、3つの民族は離合集散を繰り返しながら衝突し、第2次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。死者20万人、難民・避難民は200万人を越えた。内戦中に母も肝臓病が悪化して亡くなった。母国で知名度のあるヤドランカさんにとって、内戦について語ることは慎重を要した。どのような発言も、現地の親族をいずれかの勢力からの敵意にさらす危険があるからだ。「あなたは何人ですかって聞かれる。私はクロアチア人ともセルビア人ともボスニア人とも答えたくない。私はコスモポリタン(世界人)と答えたい」。

 ヤドランカさんがコンサートで奏でるサズは、ユーゴスラビア地方に伝わる楽器で日本の琵琶とルーツを同じくするものだ。

 「ずっと昔、ペルシャで一人のおじさんが楽器を作った。シルクロードを通って東に伝わって日本の琵琶になり、同じ道を西に渡ってユーゴのサズになった。音楽は民族とか歴史とかじゃなくて、一人の人間から生まれた。そしてまた別の人にそれが伝わる。私はそんなふうに想像してみます」

 アルバムの終わりの曲はいつもララバイ(子守歌)。民族も国境も越えた祈りの歌だ。



ヤドランカ 最新アルバム
『音色?おといろ?』 好評発売中
2007年10月24日発売 CD 2,800円(税込)


ヤドランカ・ストヤコヴィッチ…シンガーソングライター
1950年、サラエボ生まれ。16歳から叔父のジャズグループに加わり、ヨーロッパ長期ツアーに参加。その後、大学で哲学と心理学を学び、さらに美術大学で絵画を学ぶ。84年のサラエボ冬季オリンピックで公式テーマソングを歌い、国民的シンガーに。同年初来日。88年、再来日。ユーゴスラビア内戦を契機に日本に拠点をおいて歌手、作曲家、画家として活躍中。07年公開の映画『魂萌え』では主題歌を歌った。


戻る


Copyright(c) 2004−2007 HigashiHonganji ShinsyuKaikan All right reserved
(このホームページの記事・画像の無断転載を禁じます)