子どものときからお笑いが好きだった。戦争の焼け野原の中でトタン板を集め、バラックを建てての生活。みんな笑いに飢えていた。
「戦後、ラジオしかない時代です。週に2回、寄席の番組がNHKであったんです。ラジオにかじりついて聴いていました。先代の金馬師匠や円歌師匠など、昭和の名人といわれた人たちが出ておられました。笑いの少ない時代の笑いでしたから、すごく魅力を感じたんですね。人を怒らせることや泣かせることは簡単ですが、笑わせることは実に難しい。どうせやるんだったら笑わせる商売をやりたい。それで小学校を出たら落語家にならせてくれと言ったら、みっともないから中学だけは出てくれと。中学3年の2学期が終わって、学生服のまま今輔師匠のもとに弟子入りしたんです。
噺家になって1年目に祖母が亡くなりました。父親も早く死んでいますし、母親は祖母といろいろあっていませんでした。兄弟も何もない人間ですし、ずいぶんと苦しい思いをし、悲しい思いをし、寂しい思いをしましたけれども、自分で選んだ職業、やめちゃえば負けになりますから、歯を食いしばったりしました。そういう事情があるから結婚も早くしました。一文無しで電気も水道も止められ、2人で化粧品のセールスやマッチ箱の内職やら何でもやりました。娘も結婚が早かったんです。だから私は42でおじいさんになったんです。だけど、孫におじいさんと呼ばせていません。『との(殿)』と呼ばせております」
歌丸さんは釣り道楽。若いとき渓流釣りの魅力にとりつかれ、イワナ・ヤマメを求めての釣り行脚。「釣れてよし、釣れなくてよし、人生竿一竿」とまで。去年、腰の手術のとき、医者に最初に尋ねたのが「釣りに行けますか」だった。一つの釣り場に百遍通えば見えない水の中が自然とわかるようになるが、一つの噺も百遍やって初めて自分のものになると、歌丸さんは著書に書いている。
「いえ、百遍やってもならないものもあります。“間”というものがあるんです。たとえば『時そば』をやりますね。“間”のいい日のお客さまにはとても受けるんです。ところが“間”が悪いと受けない。弟子に噺を教えることはできるけれども、“間”を教えることはできないのです。だから、いかに早く自分の“間”をこしらえることができるかが、私ども噺家の勝負どころなんです。よく話し上手っていう言葉がありますが、私はあれは絶対ウソだと思う。聞き上手なんです。人の話を聞くことがうまい方はしゃべらせると実にうまい。だから話し上手ということは聞き上手だということです。
落語では八っつぁん熊さんが主役です。たまに殿様が主役になることもあるんですが、どうも間の抜けた殿様で、家来のほうが一枚上なんですね。そこが落語のいいところで、私も映画や芝居でも脇役の役者のファンなんです」。
うなぎ書房
かつら・うたまる
本名・椎名巌。1936年、横浜市生まれ。中学3年の秋に五代目古今亭今輔に入門、のちに四代目桂米丸門下へ。68年、真打昇進。テレビ番組「笑点」にスタート時から出演。04年、落語芸術協会会長に就任。昨年から圓楽師匠のあとを引き継いで「笑点」の司会に。主な受賞として、89年に芸術祭賞、91年に横浜文化賞、04年に浅草演芸大賞、05年に芸術選奨(文部科学大臣賞)を受賞。出囃子は「大漁節」。著書に『岩魚の休日』『極上歌丸ばなし』がある。