ばあちゃんのところは筋金入りの貧乏暮らしだった。若くして夫に先立たれ、学校の掃除婦をしながら2男5女を育てあげた。洋七少年を預かったときは、3歳のときの事故が原因で脳の成長が止まってしまった7つ年上の末っ子のアラタちゃんがいた。だが、ばあちゃんはとても明るかった。あけっぴろげで笑顔で毎日を過ごしていた。「貧乏には二通りある。暗い貧乏と明るい貧乏。うちは明るい貧乏だからよか」「今のうちに貧乏しておけ! 金持ちになったら、旅行へ行ったり、寿司食ったり、着物を仕立てたり、忙しか」。
「ばあちゃんの家には、ちゃぶ台にタンス、湯たんぽ、電球、団扇、茶碗、箸、釜、鍋、それぐらいしかなかったです。夕方、ばあちゃんに『ご飯ばい』と言われて、『いただきまーす』ってお膳についても、ご飯しかないときがあるんですよ。おかずはなし。そんなときも、ばあちゃんは『何もなかね、ハハハ』って笑っている。おかずなんて、ちょっとだけあるほうがかえって悲しいよね。けど、何もないとなったら笑うしかあらへん(笑)。おかずなしでもお米があったらまだいいほうで、月に一度や二度は朝ご飯がなかったり、晩ご飯がなかったりしたね。ばあちゃんはいつもブリキの缶に米を袋ごとしまっていて、開けて米がないときは缶を叩いてごっつ笑っていましたもん(笑)。『ほらアキヒロ(洋七さんの本名)見てみ、米なかばい! はよ風呂入って寝んしゃい』ってね」
ばあちゃんは毎朝4時に起きて仕事に出かけた。朝の飯炊きは洋七さんの仕事。戦後のまだ貧しい時代で、お金はなかったけど、工夫と発見と笑顔に満ちた毎日だった。
「ばあちゃん、『死ぬまで夢を持て。叶わなくてもしょせん夢や』と言っていました。ホッとするでしょ。いっぱい夢を見ろ。でもしょせんは夢だから、それが叶わなくてもガッカリすることないし、次の目標を見つけたらいい。ぼくは運動は得意だったけど、算数なんか1。『学校には教科書があるけど、社会に出たらもっと分厚い教科書があるから、心配すんな。おまえはそっちで生きていけ』ってね(笑)」
中学を卒業して広島へ帰った。4日目にばあちゃんが気になって佐賀まで自転車で会いに行った。「おまえにやるのを忘れた」と言って、ばあちゃんはお金をくれた。8年間、洋七さんのために節約して貯めたお金だった。20歳のとき、洋七さんは駆け落ちをする。ふたりでばあちゃんに会いに行った。ばあちゃんは「結婚は、ふたりでひとつのトランクを引いていくようなもの。その中に、幸せとか苦労とか、いっぱい入っているの。絶対、最後までふたりで運ばんといかんよ。ひとりが手を離したら、重くて運ばれん」と言った。デパートで大きなトランクを買った。それはまた、洋七さんと律子夫人のトランクにまつわるもう一つの長い物語のはじまりである。
徳間文庫
しまだ・ようしち
1950年、広島県生まれ。本名・徳永昭広。小学校・中学時代を佐賀で過ごす。75年、洋八と漫才コンビ「B&B」を組み、NHK漫才コンテスト最優秀新人賞を受賞。80年、漫才ブームをつくる。現在もTV、舞台で活躍。01年、佐賀時代の母方の祖母おサノさんとの思い出を書いた『佐賀のがばいばあちゃん』が評判となり、今年映画化された。前著の他に『がばいばあちゃんの笑顔で生きんしゃい』『がばいばあちゃんの幸せのトランク』『がばいばあちゃんの贈る言葉』等がある。