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 中村晃子さんに聞く
 愛情をたっぷりもらって
写真イメージ
 家の牛舎の裏はすぐ海だった。遠浅の東京湾に海苔そだが林立し、海辺には海苔の干場が広がっていた。母が沸かしてくれた牛乳を一升瓶に入れて小舟で海にくりだした。喉が渇くと牛乳を飲んで、日がな海で遊んだ。
一面の海は埋め立てられ、超現代的都市として生まれ変わった。昔の面影はもうない。
団塊世代のものにとっては「幸せが住むという虹色の湖」という中村さんの「虹色の湖」は一度は口ずさんだことがあるだろう。
あれから40年、それぞれが「幸せを求めて旅に出た私」の着地点にいる。


 10年前、母が死に、いま中村さんは認知症の父を介護しながらの二人暮らしである。

 「母親と違って男親というのは悲しいですね。私が仕事で長旅から帰ってくると、自分の下着をかくすようになって探すのに大変なんです。車を運転できるまでは、父は自分で買い物をしていたんですが、それができなくなった。あるとき新しい下着を買ってきて、『お父さんここにおくわね』とお風呂に出して置いたんです。夜中に洗濯しようと思ってお風呂場にいったら洗濯物がない。どこへいったんだろうって父の部屋をのぞいたら、下着を2枚重ねて寝ていました。ショックでしたね」

 「虹色の湖」が大ヒットし、NHKの紅白にも出場。だが、その後しばらく低迷した。キャバレー回りもした。抵抗があった。若い中村さんには傷心の日々だった。

 「父がヨーロッパ旅行に行ってきなさいと言って、切符を買ってくれたんです。フランスに行ったときに、通訳をしてくれた友人の女性が、落ち込んでいる私を見て、『シャンソン好き?とても楽しいところだから今夜行きましょう』と誘ってくれたんです。シャンソンは自分の人生を歌うんですね。頭上からポッとライトが当たって、まるで一人芝居のようでした。無名の歌手だったんですが、すっかりその人のファンになったんです。街角で花を一輪買って、毎日通いました。それからシャンソンが好きになって自分でも歌うようになり、宮川泰さんと新宿でライブをやったこともありました。でも、二人三脚でやっていた通訳の友人が白血病で亡くなって、それから歌わなくなりました」

 映画やテレビ、舞台へと中村さんの活躍の場は広がっていった。悪女役の演技が光る。「西部警察」では渡哲也を殺したこともある。

 2年前、中村さんは声帯の裏側の甲状腺に腫瘍ができた。声帯と紙一重、声が出なくなるかもしれないと言われたが、思い切って手術した。手術後、声は出たが、歌えなくなっていた。音程がつかめないのだ。友人の佐良直美さんから発声のレッスンを受けた。声帯まわりの筋肉を付けるためにカラオケで鍛えている。

 「人生というのは私は愛情だと思います。私は愛情をたっぷりもらいました。おじいちゃん、おばあちゃん、両親の愛情から親戚のおじさんおばさんたちまで。隣にお風呂屋さんがあって、気はいいんですが、頑固じじいで、いつもおこられていたので、叱られ慣れていましたね。

 いまはそういう人間関係が希薄になって、心がみんな貧相になってしまいそうな世の中ですね。邪魔なものはなくなればいいという風潮もあるようです。でも、愛をいっぱいもらっているから、いま私たちは生きているんですよね。愛といっても男と女の愛だけじゃない。友だちへの愛、動物への愛、花や木を愛するということもある。だから、いま私は愛をもらった父親に感謝しながら、一緒に生活していけたらなと思っています」

 幸せに会いたくて旅に出たが、「虹色の湖」は結局は「まぼろしの湖」だった。「ふるさとの思い出を かみしめる私よ 帰るにはおそすぎて あの人も遠くて泣きながら呼んでいる」。ふるさとを後にして高度経済成長を生きた同世代にはこたえる歌詞だ。だが、中村さんは前向きだ。ふるさとで雑草のようにたくましく、たっぷりともらった愛情を糧に生きている。



なかむら・あきこ
1946年、千葉県習志野市に生まれる。高校在学中、ミス・エールフランスコンテストに応募し最終選考に残る。64年、松竹と契約、映画に出演、和製ブリジッド・バルドーで売り出す。65年、「青い落葉」で歌手デビュー。67年、「虹色の湖」が大ヒット。68年、NHK紅白歌合戦に初出場。70年、フランス旅行中、パリでシャンソンと出会う。94年、写真集『FREEHAND』を発売。98年、ミュージカル「夢のタイムリミット」に主演。現在もテレビ・舞台で活躍中。



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