JT生命誌研究館の玄関脇のロビーに「生命誌絵巻」の絵が飾ってある。三十八億年の生命の歴史絵巻だ。「生命誌」とはDNAの研究の成果をふまえて、人間を含むすべての生物の多様性と相互の関係をとらえ直そうとする中村さんの創唱する理論である。
「現代生物学の一番大きな成果は、すべての生きものはDNAという物質を共通にして生きていることを見つけたことです。ヒトもバクテリアも同じ仲間。人間は他の生きものともつながっているし、物質的にいえば宇宙全体ともつながっている。八十年代は、遺伝子組み換えができるようになって、生きもののことがとてもよくわかり始めた時期です。人間が生きものを操作できるようになった。ただそのときに、生物学者が生物をどう見ているかというと、ガリレオ以来の機械論的な自然観なんですね。私は生きものを機械として見ていいのだろうかと思ったのです。
そのときにゲノムという考え方が出てきたんです。DNAの単位を遺伝子に還元するのではなく、ゲノムを単位にしようと。それぞれの生きもののゲノムを調べると、どうやって今の状況になってきたかという歴史がそこに書いてある。人類の起源にとどまらず、生命の起源にまでさかのぼる。一つの生きもののゲノムをさかのぼっていくと、そこには三十八億年の生きものの歴史が書き込まれているのです。その長い長い歴史を読み取っていく。生命科学ではなく、バイオヒストリー、つまり〈生命誌〉という新しい学問を始めようと思ったのです」
臓器移植や遺伝子治療が現実のものとなってきた。部品を取り替えるような医療にも中村さんは危惧を覚える。また、BSEや鳥インフルエンザも大きな社会問題となった。
「科学技術文明は、何を良しとするかというと、便利さですね。それは、できるだけ早く思い通りにできるということです。これは生きものには合わない。鳥インフルエンザやBSEの問題でも、養鶏業者や家畜業者が悪いわけではありません。そういう社会にしてしまったのです。私たちの生き方が、まったく生きものに合わなくなっているのです。
便利さは決して悪いことではありませんが、ただ困ったことに限度がない。だから私たちがどこかで限度を入れる考え方を持たなければならないのです。それを入れられる唯一のものは生きものだと思うんです。鶏や牛は警告を発しているのです。現代社会の価値観を機械論的な自然観から生命論的な自然観に変えて、その上で社会を組み立てていかなければならないと思います。宗教や哲学とともに、人間の新しい知の創造に生命誌という考え方が役に立てばうれしいと思っています」
なかむら・けいこ
◆JT生命誌研究館館長◆
1936年、東京に生まれる。東京大学理学部化学科卒業、同大学院生物化学科修了。国立予防衛生研究所、三菱化成生命科学研究所、早稲田大学人間科学部教授を経て、93年、自ら提唱する「生命誌」の理念を実践する「JT生命誌研究館」を設立し副館長(現・館長)となる。主な著書に『生命誌の扉をひらく』『自己創出する生命』『ゲノムを読む』『生命科学者ノート』『生きもの感覚で生きる』など多数。