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インタビュー

 仲代達矢さんに聞く

 「無名塾」発足から二十五年
 役者は虚業。幻を追って、一瞬を生き、消える…
仲代達矢さん
 4年前、無名塾をともに主宰してきた妻の宮崎恭子(やすこ)さんが癌(がん)で亡くなった。最後となった結婚記念日に宮崎さんは絵入りの色紙を仲代さんに贈った。その末尾には「おいしい人生をありがとう」と書かれてあった。
米軍機の空襲がはげしくなる東京で、少年期を生き延びた。死はいつも隣り合わせにあった。また、死に臨む宮崎さんに寄り添うなかで、ますます死を恐れる気持は遠ざかっていった。
「余命」だからこそ、今の一瞬を大事にして生きたいと思う。仲代さんの役者修行は終わらない。
 仲代さんが無名塾を始めたのは75年春。プライベートな稽古場(けいこば)として使っていた自宅の倉庫で、若手に演技指導を始めたことがきっかけだった。話が広まって、役者の卵が稽古場に集まってきた。2年後、入塾希望者が増え過ぎたため、公募に踏み切った。役者としての初心に帰り、無名になったつもりで修業する。仲代夫妻はそんな場にしたいと思った。95年、念願の新稽古場「仲代劇堂」が自宅に隣接して完成。今では千人近くの応募者がある。4次試験までして5人ほどにしぼる。

「無名塾は3年で卒業です。卒業しても、役者ですからしょっちゅう壁にぶつかる。ぶち当たって帰ってきて、また無名になったつもりで1からやり直す。私は出ていくのを〈めぐり修業〉、帰ってきたのを〈帰り修業〉と呼んでいるんです。だから無名塾というのは〈生涯修業〉ということをモットーにしているんです。

今は無名塾が有名塾になってしまい、無名塾出身の役者がテレビや映画に出たりするものですから、修業ということを考えないで、無名塾に入ったらすぐテレビや映画に出られると思ってくる若い人が多くなったんです。

どんな商売でも、修業期間というのは10年やそこらあるわけです。お寿司屋の職人だってそうです。役者もそうです。テレビがこれだけ発達して、どんな素人でも役柄に合えば出られます。しかし、別の役柄はもうできないんです。役者サイドから見ると、それは非常にかわいそうなことなんですね。無名塾をやっているのはそんなことかな、という気がするんです」

95年、能登半島の過疎の町・中島町に演劇専用ホール「能登演劇堂」が完成した。ホリゾンド(舞台後壁)が開閉し、劇場裏手の山や林が借景(しゃっけい)になる画期的な構造の劇場である。無名塾の公演はすべてこの演劇堂からスタートして全国を巡る。

「我々も協力して理想的な小屋ができたんです。日本の劇場は多目的ホールという名の無目的ホールが多いんです。扇形に広がって、歌謡ショーや政治家の立ち会い演説にはいいんですが、演劇の場合、客席に死角が生まれます。ブロードウェイのような長方形が理想的なのです。『いのちぼうにふろう物語』の公演ではホリゾンドが開いて、町民の人たちが連日、御用提灯を持って出演してくれました」

仲代さんは、役者は「虚業(きょぎょう)」だという。実利を追う実業に対して、人間の心という定かでない世界を手探りして感動という名の「虚」を追求する、それが芝居の世界であると考えている。

「昔、寄席(よせ)で紙切りの名人がいまして、紙切りで蝶々を切るんですね。それをふっと扇であおぐと、まるで蝶々みたいに舞うんです。しかしその一瞬が過ぎればただの紙切れになる。ぼくはそれを見たときに、役者の芸もこれだなと思いました。ある瞬間、まるで蝶々のように見えるけれども、幕が降りたら単なる紙切れになってしまう。虚業です。しかし、一瞬きらめくんです。それが役者としての喜びです。幻を追っているんです」


なかだいたつや
◆俳優◆
1932 年、東京生まれ。55年、俳優座養成所卒業。その年、「幽霊」で新劇演技賞受賞、大型新人として注目される。舞台では「令嬢ジュリー」「ハムレット」「リチャード三世」等、俳優座の中心的俳優として活動。映画では小林正樹監督の「人間の條件」「切腹」、黒沢明監督の「用心棒」「影武者」「乱」等、数々の作品に出演。75年から私塾「無名塾」で新人の育成に力を注ぎ、役所広司、若村真由美ら多くの俳優を送り出している。10月には能登演劇堂で『ウィンザーの陽気な女房たち』の公演を予定。


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