
携帯電話をコミュニケーションの道具というふうに考えていた。だがそれは認識不足だった。子どもたちはいま、コミュニケーションよりも、もっと強い動機にうながされて携帯電話を使っているようなのだ。誰かとつながりたいという欲求よりもさらに強力な動機。すなわち自己開示欲という動機にうながされて。
《大田区の中学二年の女子生徒が開いたプロフ(携帯電話の自己紹介サイト)に匿名で数十回にわたって「ブス」「死ね」といった書き込みをしていた同級生の男子生徒二人が、その事実を当の女子生徒につきとめられ、彼女と彼女の仲間に全裸にされ殴る蹴るのリンチを受けた》。(日刊スポーツ二〇〇七年十二月二十一日)
事件を紹介したくて新聞記事を引用したのではない。重要なポイントに注目してもらいたいという気持ちなのだ。重要なポイントとは、自己開示欲を現実化するための手段として携帯電話が使われている点である。プロフはプロフィール、横顔とか人物紹介という意味である。ここでいうプロフは自分自身の人物紹介すなわち自己開示の場-サイトである。子どもたちはネット上の誰とわからない不特定の他者に向かって自分を公開したいという強い欲望に強くとらわれているように思えてならない。自己開示の場を自分で開設するということが伝えてくるのは、そのことである。
自分をもっと知ってもらいたい、自分をもっと見てほしい、そう願って自己開示する。表現欲と似ていて、しかし決定的に異なることが知れよう。ここにいまの子どもたちの心の飢えないし渇きの一端をみる思いがする、といったら穿ちすぎであろうか。
素朴な疑問を記してみる。なぜ自己開示の相手が、身近などこの誰と特定できる具体的な存在ではなく、どこの誰ともわからぬ不特定の他者になるのだろうか?
中学の養護教諭で、函館チャイルドライン代表の小林恵美子さんは、女子生徒の学校での悩みのほとんどは友人関係に関するものだと述べる。その背景として以前よりも行動をともにするグループが小さくなったこと、そのため一度こじれてしまうと修復するのがむずかしいことの二点を指摘している(函館新聞二〇〇六年十一月九日)。
だとすると、自己開示は間違えると、空気が読めない人とみなされ、こじれの原因になる。無視され、グループから外されるきっかけになりかねない。すなわちいじめの標的にされかねないのだ。身近などこの誰と特定できる具体的な存在である友達は、自己開示の相手としてふさわしくないどころか、危険をはらんでいるのである。