
(1)集団登校中、前の子のランドセルを押して「早く行って」と言ったら、相手の子は「いじめられた」と親に言い、親も学校の先生に「いじめられた」と言った。
(2)同じクラスの子の消しゴムを使ったら、「勝手に使っていじめられた」と先生に言いつけられた。
(3)友達の名前を呼ぶと同時に肩を叩いたら「いじめられた」と先生に言いつけられ、先生から電話がかかってきた。
これはある集会の場における、A君という小学3年生の男の子をもつ母親の体験談である。彼女は、なにもかもが「いじめ」と言われる世の中になったと話を結んだ。
ほんとうですね。「いじめ」という言葉が独り歩きをしはじめた、そんな気がします、と私は応じた。
右の三つの出来事は正確に記すと、次のようになるはずだ。
(1)A君に早く歩けと背中を強く押された。
(2)A君に消しゴムを黙って使われた。
(3)A君が後ろから名前を呼びながら肩をぶってきた。
これらのそれぞれ異なる行為に対し、相手の子どもはすべて「いじめられた」という被害者意識に強く染まった言葉を発動しているのである。
それを聞く母親は、少し冷静なら、子どもの話からおきた出来事のおおよそをイメージし、「まあ、かわいそう、さぞかしいやだったでしょうね。でも、明日になればわかるけれど、A君はあなたをいじめたんじゃないと思うよ。男の子というのは加減がわからないのよ」というふうに我が子に言い聞かせることができたであろう。また消しゴムを無断借用された子どもの親は、「A君はきっと貸してというのが苦手なのね、許してあげようね」というようにサポートすることもできたはずだ。ところが我が子の不安やおびえを解消し、安心を与えるより先に、子どもの被害者感情に乗ってしまったのである。
A君の日ごろを知っているはずの教員もまた、我が子をすっかり被害者扱いにしてA君を責めようとしている母親の感情の波立ちを鎮めることができない。
こうなってしまうのは、子どもたちのからだとこころが、他者に対しすこぶる防御的になっていることの現れかもしれない。そのことはとりもなおさず、私たち親の、あるいは大人の、他者への防御姿勢の強まりの映しということになるだろう。せめてこのことに対して自覚的でありたいと思うばかりだ。