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 「みんな」の暴力
芹沢 俊介 (社会評論家) サンガ第89号 <2007年9月>
イメージ さいたま市の私立高校で実際に起きた暴行事件の映像がインターネット上に流出した。そのことに学校側が気づいたのは6月6日。同校の生徒の一人が、自分も参加したいじめの暴力場面をケイタイで撮影、その映像を携帯のサイトに投稿した結果であった。

 暴行があったのは5月20日と29日。流出した動画は両日に撮影された二種類で、各40秒ほど。一つは、教室の隅で一人の生徒が男子生徒5、6人に「(別の生徒に)抱きつけ」と命令され、抱きつこうとするが押し返されて転ぶのを、「みんな」が大声ではやし立てている画像。二つ目は、別の生徒に抱きついた同じ生徒の背中や頭を、殴る蹴るしている画像。撮影した生徒は、「軽い気持ちで投稿した」と述べた。(6月8日朝日新聞要約)。
 私がここで知りたいのは、生徒の弁明―「軽い気持ち」の意味である。これに対する答えは、いじめの本質の理解を通して、導き出すことができるはずだ。

 さていじめとは現象的には、多数者が一人を標的として分離することにはじまり、一度分離した標的をいつまでもその状態に固定化し続けようとしてとる行動とプロセス全体を指している。したがって暴行がなくても標的がいるかぎり、いじめは存在するのである。

 では多数者が一人を標的として分離・特定化しようとする理由は何か。大勢の中に一人でいることの不安に耐えられないからだ。それゆえに「みんな」という集合体を作り、そこに依拠しようとする。自分たちのうちの誰か一人を標的にしたとき、それに照り返されるようにして、「みんな」は成立する。ここで切実な課題が生じる。自分を「みんな」の側に置き続けることだ。それには、標的をいつまでも標的の位置に留めておく必要がある。加えて「みんな」の側にいることの「みんな」の合意が必要である。

 こうして「みんな」の暴力が呼び出されてくる。標的を「みんな」で無視する、「みんな」で殴る蹴る、「みんな」ではやし立てる……「みんな」の暴行場面を撮影するのも、その画像を投稿するのも「みんな」をバックにした行為である。

 主目的は「みんな」への帰属感、「みんな」との一体感である。「みんな」での暴力はそれを維持し、確認する手段である。いじめ参加者の気持ちは「みんな」の方だけを向いていて、標的になった一人には向いていない。ここに「軽い気持ち」という弁明が出てくる背景がある。「軽い気持ち」で暴力を振るい、「軽い気持ち」で撮影し、投稿した。その「軽い気持ち」の連鎖の果てに一人の人間の死がある、私にはそう思えるのである。

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