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 相容れない二つの主観
芹沢 俊介 (社会評論家) サンガ第87号 <2007年5月>
イメージ 先日、いじめ訴訟で、和解という新聞記事を読んだ(2月23日付「朝日新聞」)。

 1989年7月、神奈川県立高校1年のKさんが自宅で自殺した。Kさんは生前、母親に同級生3人のいじめの標的になっていることを訴え、母親は担任に相談していたという。だが、学校は必要な対処法をとらなかった。Kさんの両親は3人と県を提訴、昨年3月の一審判決はいじめを認めた。3人と県は控訴した。いじめたとされる同級生側が謝罪し、Kさんの両親とのあいだに和解が成立したのは、2月19日の控訴審においてだった。

 「謝罪文」はA4判の紙に2行。「心ならずも、心を深く傷つけ、精神的に追い詰めてしまったことを陳謝する」。

 ここにはいじめという言葉はない。誰の心をどう傷つけたのか、誰に対して陳謝しているのかがわからない。このような目鼻を欠いたのっぺらぼうな文章になったのは、これを書いた元同級生が依然としていじめを否定しているからである。それでもこの文面なら「なんとか納得できる内容なので」というのが和解に応じた理由だと、元同級生は述べている。
 Kさんの両親も釈然としない。「情けなさとむなしさ」が胸にこみ上げてきたと述べている。にもかかわらず和解に応じたのは、こうした文面を、実質的にいじめを認めたものとみなしたからである。
 なぜこんな無残な事態が起きるのか。私なりの仮説は、いじめにおいて、いじめた側といじめられた側の主観が真っ二つに割れるからである。

 集団行為への参加者には罪の意識が乏しい。同じことがいじめ集団への参加者にもいえる。彼ら彼女らの特徴は、一人一人の加害意識が驚くほど低いことである。標的に向けて口にしたりやったりしたのが集団(みんな)の行為だからである。みんなのなかの一人として振舞うとき、自分のなしたことへの自覚がいちじるしく乏しくなるのだ。自分でもおぼえがないほどに「軽い気持ち」での攻撃、これがいじめ集団の参加者たちの主観である。だから、彼ら彼女らはこう主張する、いじめたおぼえなどない、と。

 だが標的に据えられてしまった子どもは、いじめ集団の一人一人の「軽い気持ち」での攻撃を一身に受け、生きていたくないほどの重い苦痛と屈辱感に追い詰められるのである、これがいじめられている側の主観である。

 知っておくべきは、こうした相容れることのない二つの主観を生み出すのがいじめという暴力なのだという点である。

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