
いじめについて続けよう。前号の末尾でいじめ自殺の理由について、自尊感情をずたずたにされたことに耐え切れず死を選ぶのではないかという考えを述べた。もう少し厳密に記すと、踏みにじられ、打ち砕かれ、それでもわずかに残された自尊感情を守ろうとして、子どもは死の壁に向かってジャンプするのではないだろうか。
自尊感情とは、「我あり」ということである。自分が自分であるという同一性(自己同一性)の上に築かれる自分という存在への肯定感のことだ。ほんらい家庭や教室は、一人ひとりの子どもの同一性を保障しなければならない場所である。いまここに・安心して安定的に・自分が自分であっていいという保障、これがあってはじめて子どもはのびのびと自分を生きることができる。
以下は一昨年、いじめを苦に自殺した6年生女子が書き遺したものだ。
学校のみんなへ この手紙を読んでいるということは私が死んだと言うことでしょう。私は、この学校や生徒のことがとてもいやになりました。それは、3年生のころからです。なぜか私の周りにだけ人がいないんです。5年生になって人から「キモイ」と言われてとてもつらくなりました。6年生になって私がチクリだったのか差別されるようになりました。それがだんだんエスカレートしました。……周りの人が私をさけているような冷たいような気がしました。何度か自殺も考えました。でもこわくてできませんでした。でも今私はけっしんしました
(北海道滝川市)
一読して、教室が彼女の自尊感情を保障する場にまったくなっていなかったことが知れる。集団が一人の子どもの同一性を剥奪し、「我なし」の状態、自尊感情の崩壊状態へと追い込んでいることがはっきりと見えるだろう。
いじめは、たった一人「我あり」という状態に放置されるのではない。いじめはそのような一人であることに耐えるよう強いられるのではない。ここを誤解している人が多い。そのため孤独に耐えろ、一人に堪えろなどといったアドバイスがなされたりする。
違う。いじめという暴力は、「我なし」の状態における一人へと追い込み、その状態を強要するところに特徴がある。人を「我なし」の状態へと閉じ込めてしまうことである。「我なし」の状態にいつまでも耐えることのできる人などどこにもいやしない。いじめのほんとうの怖さがここにあるのだと思う。