初夏の涼風の立つ夕、たまたまいっしょになった学生と最寄りの地下鉄の駅まで歩く。こうやって彼女と一対一で話をするのは初めてだ。問わずがたりに学生は母親のことを話してくれる。自分たち子どものために身を粉にして働いていてくれる、と彼女は言う。母の思いはわかるけれど、母にももう少し人生をたのしんでほしい。私たちのためだけじゃなく、自分のためにも生きてほしい。19になる娘はいう。(お母さん、聞こえていますか?)と私は心の中でたずねる。(お嬢さんはこんなに大人ですよ。こんなにしっかりしてきておられるんですよ)私はいとおしさに学生を抱きしめたくなる。
どうすればいいだろう。お母さんの気持ちもわかる気がする。お母さんには多分、子どもたちの世話をすることが苦でも何でもない。むしろ喜びなのだ。子どももそれがわかっているから、むやみにその手を拒否できない。けれど、自分たちの世話をはなれ、ひとりの女性として、いきいきと日々をたのしむ母親をもう娘は望むようになっているのだ。
そういう娘は凛として美しい。だから、私はいとおしく、抱きしめたくても手が出せない。この学生の世界を心情に負けておかしてはならないと思う。
親にはおそらく保ちにくいこの距離が学生と私との間にはある。そしてこの距離ゆえに学生たちはしばしば私に彼女らのもっている最も良質のものを見せてくれる。本質を突く鋭いことば。深い、哲学的な表情。屈託のない幼い子のような笑顔。そっとしまいこむ謎めいた微笑。真剣さ。生真面目さ。知的好奇心。ちょっと生意気に、ちょっと突っ張って。ああ、私だけではもったいない。親御さんに、と思うけれど、親たちは親たちで私の知らない子どもたちのすてきな面をいっぱい知っているに違いない。そうであってほしいと思う。