家じゅうにペーパーをひろげて、夫と確定申告の書類を作っていた2月下旬のある日、うれしいことがあった。
曇り日ながら春の気配の漂いだしたその日の昼下がり、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。戸を開けると、30数年前、高校にいた頃にクラス担任したAさんが、子どもを3人連れて、立っていた。「こんなに大きくなりました」と彼女は言った。たまたま近くを通りかかったので、ふっと私の顔が見たくなって、立ち寄ったのだという。30代に入って結婚したAさんは、あっという間に1男2女の母となった。長男は4月から中学生になり、Aさんは、いよいよ50代に入るという。私が担任したとき、彼女は15歳だった。
急なことで、玄関先での立ち話となったが、何かのきっかけで話は滋賀県長浜市でのあの幼稚園児ふたりが殺された事件に及んだ。と、Aさんは何より先に、あの中国からきた女の心中を思うとつらくなる、と言ったのだ。殺された子どもとその親たちに同情することは誰にもできる。だが、地方都市の在に暮らし、障害をもった実母をひきとって、貧しい中3人の子どもを育ててきたAさんが、誰よりも先に子どもをあやめた側の中国人女性に同情を寄せるのを見て、私は閉ざされた地域共同体でのAさんの苦労を想うと同時に、そんな中でも終始異物を排除したり、抑圧したりする側に立つまいとしてきた彼女のひそかな矜持を想った。もちろん夫の支えも忘れるわけにはいかな。子どもたちの見るからに健やかな成長もこういう両親の姿勢なしには望めないだろう。
母子を送って再び深刻書類作成の仕事に戻ってからも、私はこみあげてくるうれしさをたびたび夫にこぼさないではいられなかった。
強者につくこと、多数につくことは楽である。むら社会では〈和〉というスローガンのもとにいつもそれを強制される。そんな中でAさんをその内側で支え続けているものは何か。以来それを考え続けている。