「献杯(けんぱい)」と「いただきます」
お斎(食事)になりますと「献杯」という行為をよく見かけます。献杯について『広辞苑』を見ますと、「(敬意を表して)さかずきを人にさすこと」とあります。そうしますと、仏事で行われる献杯は、さかずきを亡き人にさすという意味になるのでしょうか。
ところが浄土真宗では、献杯という行為はいたしません。食べ物や飲み物をいただくときには「いただきます」と合掌してから食します。丁寧には「食前のことば」「食後のことば」(別掲)を唱和します。
童話作家の宇野正一さんは、幼少期に父母と別れ、祖父に育てられました。祖父の弥三郎さんは、「たべものさまには仏がござる。おがんで食べなされ」とよく言われていたそうです。正一さんは、あるとき学校の先生に尋ねます。「ご飯の中に本当に仏さまがいるのか」と。先生は答えます。「ご飯粒の中には、蛋白質(たんぱくしつ)と含水炭素(がんすいたんそ)と、脂肪と水分、その他のものは入っとやせんがや」。
科学的に分析すれば、学校の先生のおっしゃるとおりでしょう。しかし、それでは合理的な考え方になってしまい、自然の恵みへの感謝も生まれません。
私たちが口にする食べ物は、肉でも魚でも野菜でも果物でも、すべて命のあったものばかりです。それらの命をいただいて、自らの命を保持しています。命あるものをいただいているという慚愧(ざんき)と、生かされているという感謝の心をいだかざるを得ません。
そういう命をいただいているが故に、仏さまの心をもまたいただくことができるのです。つまり、食べ物は仏さまのいのちをいただくための大きなご縁となって働いているわけです。その働きを弥三郎さんは拝んでおられたのでしょう。
このように考えてきますと、法事でのお斎は杯を献ずるという性格のものではなく、食べ物や飲み物をとおして仏さまのいのちをいただくという、私への問い返しでもあるのです。日頃から拝んで食したいものです。
<食前のことば>
み光のもと
われ今さいわいに
この浄き食をうく
いただきます
<食後のことば>
われ今
この浄き食を終わりて
心ゆたかに力身にみつ
ごちそうさま