皆さんは、家族の方が亡くなられた日を何とお呼びしていますか。亡くなった日ということで「死に日」とおっしゃる方もありますが、仏教では「命日(めいにち)」といいます。本願寺第八代の蓮如上人は「明日(めいにち)」という表現もされています。
つまり、「命の日」とか「明るい日」ということをもって、家族の人が亡くなられた日をいただいてきたのが浄土真宗の伝統であり教えでもあるわけです。(毎月の命日に対し、毎年の月日にあたる命日を祥月しょうつき命日といいます)
一年間を振り返りますと、身の回りにはたくさんの記念する日があります。命日は、私たちにとって記念する日の一つといえましょう。何の記念かと申しますと、死をもって生を考える日、つまり命を考える記念の日ということです。そういう日を命日といい、亡き人が私たちに与えてくださっている日なのではないでしょうか。

その上、法事=年忌法要(前々回参照)となりますと、例年と違い特別な年になるわけです。
法事には「亡き人を偲(しの)びつつ如来のみ教えに遇(あ)う」という大事な意味があります。亡くなっていかれた方が私たちに何を語りかけているのか、それを語り合い問い返すことができるならば、意味のある法事になりましょう。
また、「如来のみ教えに遇う」という、前回申し上げた「聞法(もんぽう)」と「報謝(ほうしゃ)」という意味からすれば、法事と仏法聴聞を切り離しては意味がありません。住職を招き法話をいただくことも欠かしてはならないことです。
これらのことを総合して考えてみますと、法事の日取りを決める場合、命日若しくはそれに近い日に勤めるのが望ましいわけです。住職の都合を確認しておく必要もあります。また、お招きする方々の集まりやすい日という配慮も必要でしょう。
一般的に、法事を勤める場合、命日よりも早い方が良いとよくいわれますが、浄土真宗の教えにその根拠はありません。大切なのは、聞法と報謝の心です。そのお心をもって法事に臨んでいただきたいと思います。