いま1度、葬儀について考えてみたいと思います。
中2のご子息・誠君を亡くされたお母さんは、こうおっしゃっています。
「法要も読経も合掌して念仏称えるのも、亡くなった誠のためという考え方は、とんでもない見当ちがいでした。仏になった誠からいただくばかりの私だったと気づかされ、<マーちゃんありがとう>と手を合わさずにはおれません。住職さんが<誠君は人生の先生です、恩師です>といわれたのが、はっきりわかりました」(『同朋新間』から)
この言葉から、次のことが教えられます。
- 読経や合掌は亡くなった人のためではない。
- 仏さまに手を合わす心。
- 住職の仏道への確かな導き。
葬儀でよく耳にする「ご冥福(めいふく)をお祈りします」「安らかにお眠りください」は、まさに亡き人のための手の合わせ方なのでしょう。お母さんは、慰霊(いれい)の寺参りを欠かさなかったといいますから、死後の間違いのない幸福を祈ったに違いありません。自らの力ではどうすることもできないお母さんは、悩み・苦しみ、何度も自殺を考えたそうです。ところが、浄土真宗の教えを聞き、住職と言葉を交わすうち、何がなんでも自分の思いどおりに運ばせたいという自我の執着にどっぷりつかっていた自分がわかってきたといいます。

浄土真宗の教えの言葉が亡き誠君からの無言の呼びかけとして、間こえてきたのでありましょう。お母さんは誠君から、人間としての生き方を教えられ続けていたのです。それが、「誠からいただくばかりの私だった」という気づきではないでしようか。ここに、亡くなった誠君を仏さまと仰ぎ、合掌(礼拝(らいはい))せずにはいられない心が生まれてきたのでしょう。
通夜・葬儀は、慌ただしく始まり、慌ただしく終わります。だからといって、単なる一過性のものではありません。残された人生を仏さまから、そして亡き人から聞きたずねる大切な時間なのです。葬儀を終えて後も、住職の法話を大切にされ、自らの確かな人生を学び歩んでいただきたいと思います。