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仏事一口メモ
 葬儀と迷信
  第16回 <1995年7月>

 通夜がつとめられ、明ければ葬儀をいとなむことになります。
 葬儀とは、身近な人の死という現実を誰にもさけられない事実として真剣に受け止め、亡き人とのお別れを告げる儀式ということにとどまらず、その人の生涯を偲びつつ、私たちの生きる意味を仏さまの教えに問いたずねていくという厳粛な儀式です。

 にもかかわらず、葬儀(枕勤めや通夜などを含みます)には、仏教とは無縁で、逆に人の心を惑わす迷信や奇習(きしゅう)などが、実(まこと)しやかに行われるのを多く見かけます。

 例えば、魔除けと称する守り刀をお棺の上にのせる、一膳飯(いちぜんめし)やお水を供える、出棺に際してお棺を三回まわす、生前愛用していたお茶碗を割る、火葬場の行き帰りの道を変える、火葬場での飲食の残りはすべて置いて帰らなくてはいけない、日本酒を「お清め」と称して飲むことなどです。

 また、その「お清め」ということで申すならば、ほとんどの通夜・葬儀の際には、お礼状とともに「清め塩」と書かれた小袋が会葬者に渡されています。この「清め塩」で、何を清めようというのでしょうか。

 もしそれが、死の穢(けが)れを清めるという意味であれば、亡き人は穢れたものとなり、葬儀自体も穢れた行為となってしまいます。生前に親しかった人も、亡くなれば「穢れたもの」として「お清め」することは、全く道理に合わない、痛ましいことです。

 果たして死者は、穢れているのでしようか。仏教では、決しで「死」を「穢れ」と受け止めません。仏教は、身近な人の死という現実の中で、死という事実を静かに受け止め深く考え見つめていくことこそが、今を生きている私の生きる責任であり、また人間としての大切な生き方であると教えているのです。

 大切なことは、生まれる・老いる・病む・死ぬという人間の予測できない事実として「死」を受けとめ、残った一人ひとりが生きる意味を見いだすことです。

 私たちは、現に風習として根深く残存している迷信や奇習を明確に否定していきたいものです。


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