「凡小」という言葉が仏教にあります。人間は弱くて小さい存在であるという意味です。弱くてすぐくじけて孤独を感じ涙する私たちの姿そのままを言い当ててくださる言葉です。
私たちは小さい存在なのに、大きく振る舞おうとします。欲望から生まれる虚飾の姿。この虚飾の姿を自分だと思い込み、虚飾の自分を演じるのです。
本当はコンプレックスいっぱいの私です。その私が背伸びをして歯をくいしばっているのです。頑張れば頑張るほど苦しくてたまらない。「私だけが弱い」と思い込んで、目に映るすべてのものは自分より立派で強いように思います。「なんとかせねばならない」と自分にムチ打ちます。そして心に厚いバリケードを作って自分を守ろうとしますが、気がつくと独りぼっちの自分がいるばかりです。
そんな私たちに仏さまは、コンプレックスいっぱいの自分、涙や悲しみで萎えてしまう自分を、それがまちがいなくあなたですよと、「凡小」という言葉で教えてくださっているのです。何故苦しみ、他を傷つけずにはおれないのか。一生懸命に生きようとすると、必ず萎えてしまう心が生まれてきます。しかし、この萎えてしまう心こそ「凡小」であることのあかしであるし、宝物だと仏さまは教えてくださるのです。互いに萎える心で生きている「凡小」であると知るゆえに、他の人の心を受け取り支えあうことができる。そしてそれが仏さまから賜る絆であり優しさであると思うのです。
ですから、「凡小」という言葉は仏さまの愛(慈悲)の言葉です。「虚飾を演じなくてもいいのだよ。ありのままの自分に還りなさい。肩に力を入れる必要もないのだよ。心のバリケードもいらない。涙するあなたこそ自然のあなたではないか。苦しいのに、悲しいのに、強そうに振る舞うことのほうが不自然。ありのままの自分を正直に生きてください」と。
「自来迎」の「自」は自然のままに、道理のままに、仏さまと一緒、という意味です。涙、悲しみ、苦しみ、そして喜びも仏さまと一緒なのです。自然の大いなる道理に身も心も乗せきる勇気を、私は「自」と味わっています。また「来」は「かえ(還)る」、「迎」は「まつこころなり」と親鸞聖人は言っておられます。
ですから「自来迎」とは、本来の飾らない自分にかえることができるまで待っていてくださる仏さまのはたらきのことです。仏さまの教えに身を託して、自然のままに、ありのままに、「凡小」の身が支えあって、一緒に歩めることができるまで待っていてくださる仏さまのはたらきを「自来迎」といいます。味わってみたい言葉です。