これは、何年か前、ある地方新聞に載っていた小学校低学年の少女の短い作文の一部です。たまたま旅先で読んだ新聞紙面のなかで、この作文に眼がとまり、ぎくっとして、考えさせられたことを覚えています。
少女は、百点をもらったとき、うれしかったのでしょう。そして、お母さんも、そのことを喜んでくれたことが、またさらに、うれしかったのでしょう。
一方、百点をもらえなかったとき、彼女は残念に思ったことでしょう。そして悲しかったでしょう。しかし、このときは、お母さんは、残念がったり、悲しんだりしてくれませんでした。そればかりか、この件に直接関係しない、お隣りに住むマリちゃんを引き合いに出して、お母さんが少女をなじっています。そのことが、少女をさらに悲しませているのです。
彼女は百点でないよりは、百点である方がはるかに立派な結果であることを十分に知っているはずです。そして自分が残念に思うばかりではなく、お母さんを失望させて申しわけないという気持ちもあったでしょう。
深刻なのは、最後の一句です。お母さんは、まさか、百点をもらったときだけ、可愛いわが子だと思っているわけではないでしょう。しかし、感覚の衰えてしまった大人の何気ない表情や言動が、大人の常識に汚されていない純粋な心に不信感を与えていることは確かでしょう。
少女は、点数は点数としながらも、そのようなこととは、まったく質の違った「かけがえのなさ」を母親に感じ、またそれを母親に願っているのです。数量化できない、また、他と比較する必要のない、「かけがえのない縁」を感じていると思います。
私たちは、知らず知らずのうちに、他との比較にこだわりをもってしまいます。眼に見える数量的な価値を優先させて物事を評価しようとしています。自分の身についている理屈を物差しにして、あらゆる物事に判断を下し、その判断を正当だと思い込んでいるようです。
私には、このような判断が全面的に退けられるべきだとは思えません。しかし、そのような、自分にとって合理的な判断しか信用していないところに、人間の思い上がりがあるように思います。「かけがえのなさ」に気づいていないところに、愚かさがあるように思います。
自分の都合を超えた「かけがえのない縁」によって日々の私が成り立っていることに、驚きとともに気づかされるもの、それは私にとっては、仏の教えです。そして仏の教えを受け止めきれない私にとって、決定的な指針になるのが親鸞聖人の教えです。
(九州大谷短期大学学長)