私がお坊さんになりたての頃のことです。ある朝、いつもの月参りでご門徒さんの家に立ち寄ってみると、なにやら人だかりがしていて、黄色いロープが張られていました。その家のご主人が、数年前交通事故で亡くなった息子さんの命日に、奥さんを道連れに無理心中を図ったのでした。それから半年ほどの間に、今度は遺されたご長男のお嫁さんのお父さんが、首吊り自殺をしたのです。病気を苦にしてとのことでした。
ご長男夫妻とは、その後の法事や月参りで何度も顔をあわす機会があったのですが、お二人とも、恨み言をいうでもなく、愚痴をこぼすでもなく、静かに耐えておられました。あまりにも深い悲しみに出遇ったとき、人は言葉を失うのでしょう。しかし人知れぬ心の奥で、どれほどの嘆きを抱えておられたか。お二人だけになった時、どういう言葉を交わしあっておられたか。それはお二人の他には、誰も分からないことでしょう。
それからしばらくして、ある時、地元のサウナでばったりご長男にお遇いしました。相変わらず淡々としておられ、私も簡単な挨拶を交わしただけでお別れしましたが、外から見ればそんな出来事があったとは想像もできない、ただサウナでくつろいでいるだけの姿に映ったことでしょう。
私がお坊さんになったキッカケも、実は人との別離にありました。他人から見ればどうということのない出来事でも、当人にとっては身をえぐるような悲しみになることがあります。人には語りようのない、他者には覗きようのない悲しみや苦しみをかかえて、誰もが生きているのかも知れません。
サンスクリット語にプリタクジャナという言葉があります。「分離されて生まれたもの」「異なって生まれたもの」という意味だそうです。それを漢訳して凡夫というのです。とすれば、生まれて来た始めから引き裂かれて在るのが私たちなのでしょうか。悲という字は心が引き裂かれる姿なのだそうです。私たちのいのちそのものが、実は人知れず、深い悲しみを抱えているのでしょう。だからこそ、いのちの深い悲しみの底から、一つのいのちを求めて叫ばずにはおられない。
如来の大悲であるその叫びが、ナムアミダブツ、ナムアミダブツというお念仏になって、ともすれば心くじけ、もう立ち上がれないと泣き言をいう私たちに呼びかけて下さいます。限りなく厳しく、また限りなく優しく。お前の悲しみはお前独りの悲しみではない、それは人間の悲しみなのだ。お前の苦しみはお前独りの苦しみではない、それは生きとし生けるものの苦しみなのだと。
(横浜市・高明寺住職)