如来に信ぜられ
如来に敬せられ
如来に愛される
かくて我等は
如来を信ずるを得る
『曽我量深』
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このお言葉は曽我量深先生が心境を語られたものです。
経典(大無量寿経)には、四十八カ条にわたって阿弥陀如来のお心が表白されています。それは本願といわれ、誓願ともいわれます。
「必ず救うてやまない我が願いを、一切のいのちあるものに聞かしめて、わが名(南無阿弥陀仏)が響きわたることがなければ、我は仏に成りません」と「誓い」、「約束」しておられます。
曽我量深先生はその誓願に身を挺して聞いて生きられました。そして、如来のお心に出遇われました。「如来はこの量深を信じ、尊敬し、愛するが故に、本願をもって如来の本心を表白してくださっている、その如来の信に呼び覚まされて、如来を信ずる信心をたまわった」と。
この心境は親鸞聖人の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」とご述懐なされた心境と一緒です。
親鸞聖人は、人間には如来を信ずるまことの心など、微塵もないと自覚され教えてくださっています。もし私たちが「如来を信ずる」というとき、必ず条件があり、たのみ心があってのことです。したがって純粋なものではありません。取り引きする信心にはやすらぎはありません。人間同士の信頼も同じです。
私はなんの取り得もない人間です。ですから薄氷を踏むような思いで生きたこともありました。人を疑い、怖れ、人生の行き先を想い煩い、不安におそわれることもありました。
しかし只今は、この曽我量深先生のお言葉に導かれて、親鸞聖人のお心に出遇い、如来に信ぜられている。誰からも信ぜられる資格のない私を、信じてやまない如来がおられました。私にいのちをかけてくださっている如来がおられると、本願に聞き、如来の信(本願)に出遇うとき、私は初めて大安心の場を得させてもらっています。自信もいただきました。何も持たずにいいのだという自信です。
阿弥陀如来の信は無条件でありました。無条件にこの私の全部を信じてくださるが故に、人生の行き先に、何が起こり、私の心が散乱妄動することがあってもいいのだという自信が開けています。
いつ、どこででも、「南無阿弥陀仏」と念ずるとき、私は如来と一緒です。もはや孤独ではありません。何が起こっても如来から教えられ、育てられていく新しい人生が開けてきます。
(新潟県 圓徳寺住職/冨岡秀善)