
先日、あるお寺で法話をした時のことである。前の方にご婦人がお二人座っていらっしゃった。見たところ親子のようであった。私が話を始めると、そのお二人も何やらヒソヒソと話しだした。結局、私が話をしているあいだ中、そのお二人も話をしておられた。
私もずいぶん気になって「私語は、周りの人に迷惑になりますから慎んでください」と注意したところ、そのお二人は申し訳なさそうに本堂の後ろの方へ席を移動された。しかし、移動された後も、まだヒソヒソおしゃべりをしておられた。
そして法話が終了し、私は控室へ戻り、そのお寺の住職にお二人のことを伝えた。その話を聞いた住職が言われるには、「あのお二人は、実は中国の方で、世間話をしておられたのではなく、娘さんがお母さんに日本語を中国語に同時通訳をしておられるんです。だから一生懸命法話を聞いていらっしゃるんです」とのこと……。
私は住職からその話を聞くまでは、まさか通訳をしておられるとは思いもよらず、そのお二人は法話中に世間話をしている非常識な人だという思い込みから、お二人が何を話しているのか、その内容も確かめないまま大勢の前で一方的に注意したのである。ずいぶん後味が悪い思いをした。人間の思い込みほど恐ろしいものはないことをこの時ほど教えられたことはなかった。
自分の思い込み(先入観)によってどれだけ人を傷つけ悲しませ、もっと言えば偏見や差別をしつづけていることか。
相手のことをわかったつもりで出会っているが、自分は相手のことをよく知っている、よくわかっているという姿勢は、実は大変傲慢な姿かもしれない。むしろ相手のことを何も理解していなかったという姿勢のみが相手との距離を近づけるのではないだろうか。私たちは、身近なところでは親子・夫婦・友だち、広く見れば国家と国家の関わりなど、さまざまに他者との関係を生きている。しかし、関わってはいるが、はたして本当に出会っているといえるのだろうか。
「仏さまの教えを聞くと、何ごとも決めつけない、やわらかい心を賜ることができます。人間関係を豊かにするには、やわらかい心が不可欠です」と以前教えられたことがある。まず自分自身大切ににぎりしめている価値観や先入観が他者を裁き、差別し、排除するものさしになっていないか、独善になっていないか、それを点検する作業が大事なのではないか。
(愛知県・恵林寺住職)