青色青光
(しょうしきしょうこう)
『仏説阿弥陀経』
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私が園長を務める保育園で、2年前に保育士のM先生が、出勤直後、心臓疾患で倒れ、25年の生涯を終えられました。突然の出来事に皆ショックを受け、特にご両親の落胆は大きなものがありました。
彼女のお父様はしばらくの間、何もやる気の起きない、悲しい日々を送ってきましたが、娘の3回忌を終え、徐々に世間との交流を持ち始めました。現在、ボランティアで包装用ビニールテープを使った籠などの製作を地域のお年寄りに教えています。
製作の技術的なことに会話が及んだ時に「テープを半分に細く切るには、切れないハサミじゃないとダメなんです。切れるハサミだと余計なところまでスパッと切ってしまうから」と教えてくださいました。切れるハサミは世間の物差しからいえば当たり前。でも切れないハサミでなくてはならないこともある。
世間法では、時として、人間を切れるハサミと切れないハサミに分けたがります。「あいつは切れるやつだ」とか「使えないやつだ、刃こぼれしている」などと、社会に役立つ人間・人のためになる人間は「善」、他人に迷惑をかける人間・役立たない人間は「悪」というような分別です。
『阿弥陀経』の中に「青色青光・黄色黄光・赤色赤光・白色白光」の言葉があります。この言葉は、「そのものが持っている特徴・個性がそのままで尊い」との意味で多くの人に語られ、多数引用されています。「老若・男女・人種・民族・障害の有無、いかなる者(物)でもすべてのいのちがそのままに光り輝く」という引用に私は無条件に頷いていましたが、M先生のお父様の言葉に触れ、ハッと気づかされました。意識したことはなかったのですが、それまで私の中では、男でも、女でも、高齢者でも、障害者でも、と全て「でも」の感覚しかありませんでした。そこには「だからこそ」という積極的認識が欠落していたのです。
「生かされて生きる」という言葉は近年の流行であり、この言葉を否定する宗教は無いと言っても過言ではありません。そこには、「こんな私でも」という謙虚で、従順で、けなげな信者の姿が連想させられます。
しかし、「こんな私でも」という消極的な頷きだけではなく、「生かされて生きる、されど、我、生きることによって他を生かしめる」という積極的自覚と、「こんな私だからこそ」必要とされる世界のあることをM先生の死をご縁として教えていただいた気がしました。
(栃木県・慈願寺住職)