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3分間法話

 私物化されるいのち
おだまさたか
織田正尊
59回 <2002年7月>
 
いのち、はたらく

 「あなたも歩いたらーッ」と言い残して、妻が今夜もウォーキングに出て行きました。先日も玄関先でご門徒の方と立ち話をしていましたが、「健康が何よりですよね」と双方があいさつし合っていました。健康食品、健康ドリンク、枕・寝具など、衣・食・住の全てが健康志向。これでは病気なんかしたら捨てられてしまうのではないかと、背筋が寒くなりました。

 「いのちを大切に」「いのちの教育」等、「いのち」「いのち」と叫ばれていますが、昨年自死された方が3万人を超えたそうです。交通戦争とまで言われた交通事故による死者の数が1万人をやっと切った。これも道路・交通に関する諸施策のおかげと言えなくもないのですが……。この数字は何を意味するのでしょう。

 私たちは、いつの間にか「いのち」を「物化」しているのではないでしょうか。「いのち」を問うことを忘れて、無意識のうちに「いのちは私のもの」と思ってしまう。「もの」としてとらえるから、秤りにかける。大きいとか小さいとか、出来る出来ない、あるなし、と比べる。よその子とうちの子とを比べ、学ぶことを評価で計り、仕事を利益率で計り、お医者さんは患者さんの体をさまざまな検査で計る。老いて介護まで計られる。「物・人体」としての命だから……、だから「死んだらおしまい」となる。せめて死ぬ前に、元気なうちに、あれも食べておきたい、あそこにも旅行したいと東奔西走である。命すら私物化して、「何事も自分の勝手」「私が私の命、どう生きようと勝手でしょう」と捨て台詞になってしまう。それが「いのち」なのでしょうか。

 「いのち」は「もの」ではありませんし、「もの」として所有することでもありません。「いのち」を目で見ようとするから姿形にとらわれ、掴もうとしたり、気に食わなければ捨てたりもする。「いのち」はこの身のうえにあらわれる「はたらき」です。 「はたらき」に出遇い、感動したり、喜怒哀楽、輝きを感じるところに「いのち」があるのです。

「いのち」は私だけの「はたらき」にとどまるものではありません。私の「はたらき」を超えた「はたらき」を感じることがあります。

 数日前のこと、寺の門前を早朝ウォーキングしておられる方が、参道に1、2歩入ってこられ、ご本堂に向かって合掌礼拝してゆかれました。そのお姿を遠目にみておりまして、何処のどなたか判りませんが、なぜか不思議な煌々しさを感じました。

 そのときの輝きと感動は、その人個人のはたらきではありますが、その人個人を超えて、仏さまの「はたらき」をその人のうえに感じました。たゆむことなく、とどまることなく、「大いなるいのちに目覚めよ」と私自身に呼びかけつづけていてくださる仏さまの「いのち」の「はたらき」を頂戴しました。

(横浜市・順忍寺住職)


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