あなたは「迷信」という言葉で何を連想しますか?
迷信にもいろいろありますが、「私は迷信には引っかからないから大丈夫」という方もおいででしょう。でも、迷信はオカルト的なものだけでなく、毎日の生活の中で、私たちの考え方のすみずみにまで関わる、深い意味をもった言葉なのです。
以前「ポックリ寺」というお寺が話題になりました。このお寺のご利益は、「いざとなったらポックリ逝ける」というもので、不治の病に苦しみながら死にたくないと願った時に、苦痛なくポックリ死ねるというものです。そしてこのお寺は、マスコミで紹介され、全国からこのご利益を求めて来た多くの参詣者で、お寺は大盛況になりました。
でも、ある団体が参拝に訪れた帰り道、そのバスの中で一人のお年寄りがポックリ亡くなったからさあ大変。なにしろ、そこに居合わせた人たちは、ポックリ死ぬのは今ではなく、ずっとずっと先のつもりでしたから、関係者一同思わずゾッとしたといいます。
さらにこの出来事は早速マスコミに取り上げられ、それ以後ポックリ寺の参詣者は、ガタッと減ったという、ウソのようなホントの話があります。さてこの話、私たちが日ごろからしていそうなことではないでしょうか?
私たちにとって生は善、死は悪。生は美しく晴れやか、死は暗くて不浄だと、いつでも生と死を分解して考えています。でも生と死は本当に分けられるのでしょうか。
昔から「生死一如の人生」という言葉があります。松扉哲雄師は、この言葉を一枚の紙に譬えて、「紙には必ず裏と表があります。わたしは紙の表が欲しいので、裏はいらないと、裏を削っていったら、紙そのものが無くなってしまいます。人生も、生の面だけ欲しいので、死の面はいらないといって、死を無視して生に固執するのは、〈欲望の一生〉だと仏様は教えてくださる」と、生と死を分けることの問題を指摘してくださっています。そういう大切なことを知らずに、欲望一筋に神仏に手を合わせ、たのむほどにいよいよ迷っていく、これを「迷信の生活」といいます。
さて、私たちはホンネでは何を願い、何に手を合わせているのでしょうか? それを私たち一人一人に問うのが迷信の問題です。
(台東区・林光寺副住職)