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独尊子(どくそんし)
は
他力摂取の光明中に
浴しつつあるものなり
清沢満之『臘扇記(ろうせんき)
』
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「独尊子」という言葉を、私は学生時代に懇意にしていただいた先生に色紙に書いていただき、自分の寺にもどってから、いつも目にするところにかけています。折りにふれ、この言葉のもつ意味を尋ねたいと願っているのですが、難しいです。
もう2年くらい前になるでしょうか。新潟県で少女を何年間も監禁していたという痛ましい事件が発覚しました。「寂しかったから」と加害者は言ったそうです。加害者の孤独がそうさせたのでもありましょうが、その孤独を真実に自覚できなかったのでしょう。(被害者の方の身心の回復も大変なことと察せられます)
また最近は、国の老人医療福祉対策に沿って、小さな町でも、老人ホームや福祉施設ができてきました。看護介護の人も充実してきました。もちろん専門家も考えておられるでしょうが、その施設で、手足も動けず横たわっている人たちの存在意義は、どうなのでしょう。手足は動けずとも、世間的に役に立つことがなくても、生きていること、生命があることそれ自体の意味をどこに見出せるか。
この「独尊子」の文は、清沢先生が、念をおしつつ意味を尋ねている文章の一部分です。「子」という字を入れた、「独尊子」というところに私は、親鸞聖人の「十方の如来は衆生を一子のごとくに憐念す(憐(あわ)れみ、念じる)」と歌われた和讃とつながって、私自身が如来の一人子(ひとりご)、救われるべき「独り尊い子」であると教えられ、また私自身が私の思いを越えて、私を尊い人間であると気づかされることのように思われました。その自覚に救いの光がさすと言われるのです。
私たちの孤独や寂しさ、人生の意昧喪失などの問題は、本当に深い人生の問題であって、宗教の問題です。他者や物質によって解決できる問題ではないようです。信仰によって本当に自分は尊いのであり、人もまた尊いのであり、救うと願ってくださる如来に尊敬され、大切にされているという感情の事実によって、一人一人の人生が回復されてくるものがあるのではないでしょうか。
現代の群集の中での孤独を孤独とわからずに生き、また自分の生きていることの意昧もあいまいな中で、孤独に陥(おちい)ることを恐れ生きている私たちに、「独尊子」「独り尊い子よ」と呼びかけてくる世界に心を開くことが、人生の深い問題に応えていくことなのではないのでしょうか。