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如来の御恩ということをば
さたなくして、
われもひとも、
よしあしということをのみ
もうしあえり
『歎異抄』
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ブッシュが善ならばビンラディンは悪です。アメリカが善ならタリバンは悪です。自国の行う戦争が善なら他国の起こす戦争は悪です。首相の靖国参拝や集団的自衛権行使の主張が善なら、それを抑止(よくし)している日本国憲法は悪です。もっぱら自国の安泰と繁栄を保障する「護国の宗教」が善なら、それこそが独善と排他の「穢国(えこく)の宗教」にほかならぬことを悲痛する浄土真宗は悪です。善はつねに私のためにあり、悪はすべて他のためにあるのです。
個人から国際社会にいたるまで今、世をあげて「よし・あしということをのみ、もうしあえり」「われもひとも」です。これは人間の決める善・悪に何ひとつ決定的なものはないのだという事実に直撃された人の悲歎(ひたん)をとおして、はじめて開眼した智慧(ちえ)のことばです。
1945年の敗戦から、わずか半世紀の間でさえ、激動する世の方向を指し示すはずの善・悪の基準が、かえって 流転(るてん)する時代・社会の流れのままに二転三転してきました。そして今また容易ならぬ岐路に立っているのです。
「世界に類のないヘンな憲法を護り抜こうというような、ヘンな人たちに任せてヘンな国家を選んだら、国際社会の孤児となって国益を損なうこととなる」「普通の人間・普通の国家となって国際社会に貢献しなければならぬ」という声が次第に高まってきています。そこではもはや道義的・倫理的意味での善・悪の語は葬られてしまっています。人類・世界の進路を終極的に決定するものは、力と金と多数の欲情であるという居直りの信念です。それがまた世界
の終焉(しゅうえん)と人間の喪失という滅びのしるしにほかならないのですが……。
「よし・あし」を論じつくせば、ほんものが明らかになると思いこんでいるのが合理に生きる現代人の最大の迷信です。論じている私自身が不条理な存在であるから、「よし・あし」の対象にならないのです。どう思い・どうすればよいのか。方法がないのです。それぞれ「よし・あし」を立て、他を裁いているわれ・ひと共に、そのような自己のおろかさにおどろいて目覚めるほかはないのです。
私が私に目覚めることはできません。みずからのおろかさを恥ずることも悲しむこともない私が、 久遠(くおん)の昔からそそがれている大きく深い悲しみのまなざしにうなだれ、よし・あし
の諍論(じょうろん)を 抛(なげう)って、いのちの根っこから呼びかけられる純粋要求に呼び返されて生涯を生きぬく一道に立つ。そのことひとつに決着するばかりです。