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3分間法話
 「正気にかえれ」
いながきとしお
稲垣俊夫
49回 <2001年1月>
 

「おれたちは、だれ一人、 正気じゃないんだよ」
ぼくは言った。
ヘミングウェイ『日はまた昇る』(1926)


 1昨年、幼稚園時代からの親友・弘君が亡くなりまして、その1月ほどあとに、90歳をこえた彼のお母さんも、後を追うようにして亡くなられました。

 その前年でしたか、彼のお父さんのご法事を勤められたのですが、そのご法事の席上、お母さんのなさったご挨拶は、忘れられないものがありました。

 といっても、別に何のヘンテツもありません。「おじいさんの法事は、ほんとは来年ですが、私もこの年ですし、せがれの弘もごらんの通り長患(わずら)いの身ですので、繰り上げて今日勤めさせて頂きました。どうも有難うございます」。たったこれだけなのです。

 でも、90歳を越えたお母さんの「有難うございます」は、心底(しんそこ)から頭(ず)の下がった「有難うございます」でした。ほんとうに「有難う」になり切っているのですね。まことに有り難く、感動しました。

 このお母さんは、以前は、道で出会ったら最後、機関銃みたいにしゃべりまくって、いつまでも話が途切れないので閉口したものですが、こんなにまで心底から頭の下がり切ったすがたに出会わせて頂いて、驚きでした。90過ぎるまでダテに年を取ったのじゃないですね。

 人間、何が大切か。たった一つ、「頭が下がる」ということです。

 ほんとうに頭が下がり切っているかどうか。裏返して言えば、頭を上げていられなくなっているかどうか。この一点だけです。

 85歳の親鸞は告白します。「私たちの身には、自己保身の本能的執着(しゅうじゃく)が隅から隅まで充ち満ちていて、その結果、怒りの心や嫉妬(しっと)の心が絶え間なく群がり起こって、息の根の絶える刹那(せつな)まで一瞬もとどまらない。消えない。中途でぷっつりと切れてなくなるということがない」(『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』筆者意訳)と。

 これが粉飾(ふんしょく)決算を剥(は)ぎ取られた「我が身」の事実で、この事実をおさえて、親鸞は「カカルアサマシキ我等」と言います。

「カカルアサマシキ我等」が「南無阿弥陀仏」と念仏申すのです。立派な私が念仏する、のではありません。

 「南無阿弥陀仏」の中に「南無」があります。「南無」とは「ほんとうに頭が下がった」ということです。

 たとえ人真似(まね)でも惰性でも、「南無阿弥陀仏」と、口を動かし声に出して念仏申すところに、南無阿弥陀仏に内蔵(ないぞう)された「南無」がはたらき出て、私の思い上がりを打ち砕(くだ)いて正気(しょうき)に帰らせ、「カカルアサマシキ我等」に立ち帰らせてくださるのです。

(台東区・通覚寺前住職)

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