髪を後ろになびかせて、手を胸の前で垂らし、足が見えず宙に浮いて、柳の下にいる。これが日本のユウレイだそうです。お目にかかったことはないのですが、こんな話を聞いたことがあります。髪を後ろになびかせる姿は、後ろ髪を引かれる思い、つまり後悔や未練を表し、胸の前で垂らす手は、ああなれば、こうなればという手を伸ばしたい思い、つまり欲求不満を表すのだと。そして、後悔・未練や願望だけで「いま」を生きることを忘れている姿を、地に足の付かない姿として表現しているのだと。
たしかに、「あのとき、ああしていれば……」とか「あの頃はよかった……」とか、「私もああなりたい」という思いが起こります。そういう思いがあるからこそ、反省をもし、また向上ということもでてくるのでしょう。しかし、過去の事柄と未来の姿にだけ執(とら)われるなら、それは生きている実感にならないだろうと、ユウレイの姿が示しているように思えます。
最近起こる痛ましい事件の数々も、「いま私が生きている」という確かな手ごたえを失い、こうあるべきだ、こうあるはずだと、社会全体が過去と未来にだけ目を向けてきたことへの、窒息しそうないのちそのものの叫びのようにも聞こえます。
思いもかけないことが起こってくるのが人生と言います。そのことを一番よく知っているのは、何を隠そう悲喜を味わってきたこの身なのですが、知っていながら自分で描いたとおりにならない苛立ちが、いまの私を苦しめます。こうなったら納得のいく人生、ああなったら納得しがたい人生と、心のどこかで自分の人生を決めて、自分で決めた結論や周囲の声に振り回されて漂っています。ユウレイと呼ばれるのは、その姿なのかもしれません。
親鸞という方の最晩年の生き方にふれた感動を、「人生を結論とせず人生に結論を求めず人生を浄土の縁として生きる」という言葉で表された方がいます。「こうなったら私の人生もおしまいだ」とか、「人生とはこうあるべきだ」と結論を出すのではなく、人生に起こる出来事すべて縁として、生きる意味を求められた方であると。「結論とせず」は、無限の可能性が秘められて「いま」があるということにつながる気がしますし、人生からかけられた私に対する励ましとも思うのです。
人生に起こってくる悲喜苦楽のすべてをくぐって、いまここに私があるのは、それだけで大変なことです。その私を受けとめて「これから」という心が起こった「いま」こそ、私が私の人生に確かな手ごたえを感じて生きているときなのかもしれません。
そしてそのとき、どんな「いま」をも支えてくれる貴重な出来事が「これまで」として仄(ほの)かに輝いてくるのでしょう。
たとえ苦しくとも、そこに私にとって確かな手ごたえとしての「いま」が必ずあると教えてくれているように思うのです。
(東京・新宿区専福寺住職)