私が大谷大学に入学し、3 年生になってゼミの教授であった広瀬杲先生から「皆さんがこれから専攻なさる真宗学は、皆さんが予定概念としてお持ちの宗教とか、寺院活動における宗教活動というものすべて無(な)しにして専攻してください」という説明をいただきました。面白いことをいわれるなぁ、と思いました。今まで、学問や研究というものはさまざまなものの積み重ねによってそれが深まり、広がるのだと考えていたのに、真宗学はそういうものをすべて捨てて、白紙の状態で学んで欲しいといわれるのです。
その後、東京へ戻り、和田稠先生と出会い、蓮如上人のお文の「聖人一流の御勧化(ごかんけ)のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。そのゆえは、もろもろの雑行ぞうぎょうをなげすてて、一心に弥陀(みだ)に帰命(きみょう)すれば」というところで、この「なげすてる」というのは、ただ捨てるというのではないんだ、投げなければ捨てられないほど我が身についた深い業縁なんです、と聞かせていただきました。
その後、何年かたって「独立者」という清沢満之先生の言葉と出会い、大地に立つというのは倒れたものが初めて立ち上がることが出来るとお聞きしました。大地に倒れることがないものが立ち上がることが出来るはずがないということです。捨ててこそ得る、とよくいわれますが、どこによって捨てるのかがこれではっきりしたのです。大地です。如来とは大地のごとしといわれます。すなわち、一切衆生の救いを抜きにしては如来自身の救いもないのだと気付かされたのです。
それはこの私が人間として生まれてきたそのことが、すでに仏と出会うために生を受けたのだと知らされることになったのです。死ぬまで持ち続けるこの業縁存在をいとおしみ、哀れんで念仏の信心を与えてくださった阿弥陀の大慈悲心とは、捨てようにも捨てられない業縁存在としての人間を救おうという心に違いないと思わされたのです。
私の父がよく人に話をしていた横川(よかわ)法語を思い出しました。「妄念(もうねん)はもとより凡夫(ぼんぶ)の地体(じたい)なり。妄念の外(ほか)に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎(らいこう)にあずかりて蓮台(れんだい)にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁(にごり)にしまぬ蓮(はちす)のごとくにして、決定(けつじょう)往生うたがい有(あ)るべからず。妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号(みょうごう)を唱(と)なうべし。」
すでに私の妄念の捨てがたい心を知っておられて呼びかけておられました。そして今年の知人からの年賀状で茨木のりこさんの詩を頂戴いたしました。
車がない/ワープロがない/ビデオデッキがない/ファックスがない/パソコン/インターネット見たこともない/けれど格別支障もない/そんなに情報集めてどうするの/そんなに急いで何するの/頭はからっぽのまま
(「時代遅れ」)
今の私にあるものを捨てて、本来の生命(いのち)に気付いて生きなさいと聞こえてきました。
(埼玉県・宗泉寺住職)