そよ風わたる朝の窓というお歌があります。
働く手のひら合わせつつ
南無阿弥陀仏を称(とな)えれば
親鸞さまはにこやかに
私の隣りにいらっしゃる
何と親しみ深い歌詞ではありませんか。
私たちがお念仏を称えると、その一人一人の隣りで、親鸞さまが、ほほえんでおられるのだ、と。
私たちが、遠い存在にしている親鸞さまと、一声のお念仏の中で、お会いしているのだ、と。
一昨日私は、甲斐和里子さんの歌を想い出していました。
み仏(ほとけ)のみ名なを称えるわが声は人それぞれに、声の質は違いますが、み仏の呼び声が、わが声のまま、み仏の声であったんだ、と。
わが声ながら尊かりけり
『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』の中に、「これより西方に、十万億の仏土(ぶつど)を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰(い)う。その土(ど)に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまう」とあります。そのご「説法」が、お念仏ではありませんか。
いかにも遠い世界にいらっしゃるかのような阿弥陀仏が、私の心に宿り、わが声となって現れて下さるというのであります。
『仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)』には、世尊(せそん)が、韋提希夫人(いだいけぶにん)に「汝(なんじ)いま知れりやいなや、阿弥陀仏、此(ここ)を去りたまうこと遠からず」と告げておられます。「此」とは、どこでしょうか。お念仏の声が聞こえるところでありましょう。
もう一首、甲斐和里子さんの歌を引用させて頂きます。
み仏をよぶわが声は
み仏のわれをよびます
み声なりけり
