T(女性・72歳)「ご院主さん、孫の高校入試が終わってホッとしました。その入試の朝にネ、父チャン(孫の父)が、靴をはいて出かけようとするのを呼び止めて、・おい、今日は仏壇を拝んでいけ・と云うとるの」
M(住職)「…………」T「孫もめずらしく、素直に靴を脱いで、チンチンとやって出かけました。云うとる父チャンは一度も参らんくせして」
M「それでどうした」
T「私はネ、子供にそんなお参りの仕方を教える奴があるか、と云いましたのや」
M「ん、あんた偉い……それでどうなった」
T「父チャン、ブスッとした顔して仕事に行きました」
M「そうか、でもよく云うてくれた」
T「ご院主さんの受け売りや。如来(にょらい)さんに向かって、そんな得手勝手な願いごとはするもんやないと……」
M「父チャンは仏(ほとけ)さんをどんなもんやと思っとるのやろネ」
T「決まってますがナ、苦しいときの無理だのみや。情けないことや、門徒やのに」
M「門徒でも、仏さんをイメージとして拝んどる者がほとんどやから」
T「仏をイメージするってどういうこと」
M「罪福信というてネ、災難は来るな、幸福は来いという、あの・鬼は外、福は内・という誰もがもっている、悲しい根性ネ。その罪福信をみたすために、神も仏も召使いに、ふみ台に利用しようという、この恐ろしい心が外に仏を画くのよ」
T「ご院主さん、それなら欲やがナ」
M「そう、その根性が投影しただけや。もしそんな仏がいたら、それは魔物よ。人間を畜生に墜してしまうのや。信心深い顔しているけど、その心が逆に自分の首を締(し)めているのだということや」
T「自分で首をしめるって…」
M「あのネ、・世八法(せはっぽう)・といって、人間の行為にはそれなりの基準があるの。まず『損か得か』や。損になるなら止(や)め、得になるなら、四十八手の裏表よ。次に『苦か楽か』や。自分に苦が来るなら親でも捨てる。これは仏さまだけが教えてくださる自分のまことの姿なのよ。Tさん、金太郎あめというものを知ってる?」
T「昔からある細長いあめの棒でしょう。どこを折っても金太郎が出る、あれネ」
M「そう、私の行為のどこを押さえても、『損か得か、苦か楽か』が顔を出す。そこを一歩も出られないのが、この私だとは……」
T「ほんと、地獄一定は金太郎あめや」
M「地獄一定で思い出したが、京都へ帰られたご開山(かいさん)(親鸞聖人)をA関東の門弟(もんてい)たちが訪ねて、・念仏は浄土のタネか、地獄の業(ごう)か・と問いつめたとき、ご開山は・総じてもって存知せず・。つまり、たわけたことを云うな、そんな問いは、人間の罪福信から出る問いだ。浄土のタネ、つまり間に合うなら念仏しよう、地獄の業なら止めた、というのならお念仏も罪福信にすぎない……、とネ」
T「ご院主さん、これは父チャンの話じゃなかったですネ」
M「間に合うなら大事にしようとの根性で生きていくと、どうなる。ネ、Tさんも私もいまに間に合わなくなる。若い者にとっては厄介(やっかい)ものになるだけ」
T「そんなこと、ご院主さん」
M「でも、文句は云えんのや、世八法だけで生きてきた親の子や。血をひいてるし、よう親を見習うてるから尚更や。自分で自分の首をしめているだろうが」
T「………」
M「仏さん拝んでいけと信心深いか押して拝んでるまんまが、底知れぬ深い闇の中の話ということや」
