次の対話は、同朋(どうぼう)大学で田代俊孝(たしろしゅんこう)教授の「死そして生を考える研究会」が発足(1988年7月)した当時、その会に参加されたある女性が私の部屋をたずねられて、語りあった内容です。いまも私の中に深く刻まれています。
私がこの会に参加したのは、長年の親友がいま末期ガンで余命いくばくもありません。しかし、その友人に何一つ役に立つことを言ってあげることのできない自分が、はがゆくてならないのです。この会に出席して少しでも仏教を習って、その親友に話してあげたい。それが参加の動機なのです。あなたの真剣なお気持ち、また、友を思うお心、とてもよく伝わってきます。私も真剣に一言いわせていただきます。あなたは、何か仏教の信仰が、安らかに死んでゆける方法とでも思っておられるのですか。
仏教の信仰によって安らかな心になれば、静かに人生を終えることができるのじゃないのですか。
はっきり申しまして、それはお考えちがいですね。
えっ?
・さあ・となったら(なっても)、間に合うものが仏教の信仰ではありません。反対です。・さあ・となったら、間に合うものが一つもないことを明らかにするのが仏教の信仰です。
仏教の信仰でも、ですか。
そうです。信じています、安心しています、感謝しています、祈っています……と、言っていても、それはすべて自分に上乗(うわの)せしたものですから、・さあ・となったらみな離れてゆきます。
そんなこと……。
それで先人・先輩方は、仏教に依(よ)って「丸裸の自分に遇(あ)わせていただくのや」、と告白し、教えてくださっていますね。
丸裸? それなら私は、何にすがればよいのですか。
丸裸の自分は、もはや自分だと私有化することが許されない自分だったのですね。
故・藤原正遠師の一句に、この「丸裸の自分」、真に・いのちの公け性・をズバリ教えられた感銘から申し上げたことでした。
蓮如上人(れんにょしょうにん)が親鸞聖人(しんらんしょうにん)のおこころを継承し、「とも同行(どうぎょう)」の精神に生きられた原点も、この「丸裸の自分」をはずしてありうることではなかったのでしょうか。
生きることは 私事ではない!
(名古屋市・同朋大学教授)
