現代社会は極度に発達したマニュアル社会です。もともとは、どんなに高度な機械の故障でも、それさえあればベテランの技師がいなくても、直すことができるように作られた説明書から始まりました。
それが次第にサービスの分野にも広がり、同じサービスをどこでも受けられるように、外食産業の中にいち早く取り入れられ、今ではこのマニュアルが知らず知らずのうちに人間生活の隅々(すみずみ)にまで入ってしまっています。現代社会はマニュアルがなければ一つとして動かないし、またマニュアル通りでなければ不安になってしまう。さらにはどんな悪いことでもマニュアルにして真似(まね)ても平気な社会です。今年の夏に起こった毒入りカレー事件以来、それを模倣(もほう)した一連の事件が跡(あと)を絶たないのも、マニュアル社会が行き着いた結果のように感じます。
先日、テレビのインタビューの中で、子育てに困っている若いお母さんが、「マニュアルがあればいいんだけど」と洩(も)らした言葉を聞いてドキッとしました。自分の子どもを育てることさえ、マニュアルがあればマニュアル通りに育てたいというわけです。そこには、核家族であるとか、住宅事情だとか、現代の社会の複雑な問題があるということはわかりますが、生きている自分の子どもを、機械扱いしていることと同じことではないかと思うのです。
幼児虐待(ぎゃくたい)の相談を受けているカウンセラーの方がこんな報告をしていました。「私たちの年代は、自分の腹を痛めて産んだ子は、生まれただけで可愛かった。ところが今の二十代のお母さんたちは、育てても、ニコッと子どもが笑っても、可愛いとは感じないようになってきている。それが本当は問題なんです」
お母さんと赤ちゃんといえば、人間の関係の中で最も愛情が深く直接的であるはずなのに、愛情が通わなくなって、自分の子を虐待する親が増え続けています。マニュアルは、一見不安を解消するようでいて、実際は根本的な愛情の阻害(そがい)をするのです。
江戸時代、飢饉(ききん)で日本中に「間引(まび)き」という風習が流行(はや)った時、何故か念仏の盛んであった地方では少なかったと聞いています。一家が食えない状況はいっしょでも、食いぶちを減らす間引きというものを念仏は許さなかった。最後には、一家野(の)たれ死(じ)にを覚悟で、移民という方途をとった。そんな逼迫(ひっぱく)した状況でも、いやそういう状況だからこそ、念仏がその人たちに命(いのち)の連帯というものを教えたのではないかと思います。
しかし、そんな念仏を現代人は、お墓やお葬式の時にだけ言う言葉にしてしまっています。レストランで食事の時に「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とやったなら、「縁起でもない」という言葉が隣から返ってきます。
生き生きとした命の事実に人間を立ち帰らせるはずの念仏をも、マニュアル化しようとしているのです。いわば人間のマニュアル化から脱却させるためにある念仏を、人間はさらにマニュアル化しようとしています。
(新潟県・淨泉寺住職)
