宗祖(しゅうそ)親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、私たちのものの見方を「有漏(うろ)の分別(ふんべつ)」という言葉で教えています。有漏、それは「漏(も)れることが有(あ)る」ということです。どんなにものごとを見通しているつもりになっていても、そこには見えないものや、見えない人々がぬけ落ちてしまっている、ということです。もちろん意識して見落としている訳ではありません。自分にとって関心のないことや見たくないことを、無意識のうちに見落としている、ということを指摘された言葉です。
この詩は金子みすゞの『大漁』という有名な詩です。いわしの大漁で浜はお祭り騒ぎ。人々の喜ぶ顔や声がきこえてきそうです。しかし、その喜びの輪から離れて、目を海に向けて見ると、そこには「何万のいわしのとむらい」という悲しむべき現実があった。しかも、誰ひとりとして海の中に目を向ける人はそこにいなかった。そのような私たちの世界の現実を金子みすゞは見つめていたのでした。もちろん親鸞聖人は、「有漏の分別ではダメだから何でも見通せる目を持ちなさい」と言うのではありません。現実には自(みずか)らの関心のあることのみを見て、それ以外のことを漏らしてしまっている私たち。にもかかわらず、すべてのことを分かったつもりにしてしまって、実はものごとを漏らしているということに気がつかないでいるということこそが問題だというのです。
では一体どうしたらよいのでしょうか。それは「いわしのとむらい」の声に私が直接出遇(であ)うことからしか始まらないように思うのです。自分が見落としてきた「とむらい」の声に出遇い、そうして我が身が実は有漏の身であったことを、しっかりと知り続けながら生きていく。今まで見えなかった他者や他からの声に出遇うことを通して、同時に有漏の身である私自身と出遇っていくのです。外は秋。街に出て、人に出遇い、そして私に出遇う時です。
(世田谷区・存明寺住職)
