私たち人間は、限りある人生を送るにあたって、人それぞれに何かしらの「よりどころ」をもって生きております。それは、生きがいとか、喜び楽しみとか、関心事とかいわれるものと言ってよいでしょう。
大体、私たちの関心事は、財産(お金)・健康・友達・妻子・家庭・地位(名誉)・才能・知識などに集約されるようです。私たちはこれらが、他人ならぬこの私自身を助けてくれる大事なものとして考え、日夜その獲得に向かって悪戦苦闘しております。しかしやがて、これらの一切が全く頼りにはならないという事実に出会うことになります。それを仏伝(ぶつでん)(お釈迦さまの伝記)では「老・病・死を見て世の非常を悟(さと)る」と記されています。
私にはかつてそのことを教えられた体験があります。他の人はともかくも、自分を助けると思って頼りにしていたものが一切消え去り、この自分自身が死を迎えることに納得がいかない、許せない、という呪詛(じゅそ)と後悔(こうかい)と哀願(あいがん)の中で死を迎えざるを得なかった方に接することがありました。その時に私に向かって、「助けてくれ」と言われた言葉は、今でも焼き付いて離れることがありません。
死を前にして、私を支え頼るべきものが一切の意味を失うとするならば、生きることはあまりにも悲惨(ひさん)であります。
しかしながら、私たちは壊(こわ)されても壊されても延々と私を助ける頼りになるものを追い求めずにはおれません。
何故なのでしょうか。それは、生き方の基準が自分を中心とした「正しいとか、悪いとか」「損か得か」ということを土台としていることと関係があるようです。
私たちは小さい時から「向上心を持て」「努力すれば必ず報(むく)われる」「悔(く)いのない人生を生きよ」と教えられ、そのつど「一生懸命頑張(がんば)ります」「一歩一歩近づきます」と答えながら生きております。
そういう生き方を、ある先生は「プラス・マイナスの人生観」と言われました。それは、私の人生にとってプラスになることが本当のものであり、そのために役に立つものは取り入れるが、マイナスとなるものを拒否していくという生き方を指します。
何故このような生き方をせざるを得ないのでしょうか。それは、どんなにきれいごとを言っても、最後には「自分ほどかわいいものはない」ということがあるからです。それを仏教では「我愛(があい)」「我執(がしゅう)」と言いますが、「根強い自己保身のこころ」といえます。
ところで、私たちが自己保身の生き方を離れることができないのは、実は「自分に自信が持てない」ということから起こっているのです。それは「一度も本当の自分自身に出会ったことがない」ということが理由なのです。
蓮如(れんにょ)上人の「一心一向に弥陀をたのめ」とは、私どものこのような在り方を問題にされているのです。それは「上昇志向」に根ざした人生観では「我が身」が助かることはあり得ないという確信でもあるのです。
(神奈川県・稱名寺住職)
