ある座談会でのことです。
ひとりの壮年の方より、世の中の多くの宗教は、ご利益(りやく)を掲げて勧誘していますが、浄土真宗はどんなご利益があるのですか」という質問がありました。経典(きょうてん)によりますと「真実の利益を恵(めぐ)む」とあります。利益に「真実」という言葉がつけてあるのに注目させられます。それは、私たちが求めている利益と、真宗の教えでいう利益とは違いがあるということではないでしょうか。
私たちが日ごろ求めている利益とはどのようなものなのでしょうか。そのことを確認しないまま、目前にあるもので、今自分にとって欠乏していて、欲(ほ)しいと思うものを追い求めているのではないでしょうか。貧は財を、病は健康を、争は和を……と。
欲しいと思うものも、商品経済の社会の中ではコマーシャルなどによってあおられます。そして欲望をふくらませ、利益を追求してやみません。しかし、そのような生き方はより不満の心を生み出し、自分を見失わせてしまいます。まさに「もし、足(た)ることを知らざるものは、たとえ世間に満つる財物を得るとも、こころなお足らず」(龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ))であります。
財産、地位、健康、人間関係の和というものは、欠乏すると苦しきこときわまりない厳しい問題です。だからこそ私たちは、祈る気持ちでこの利益を日夜追い求めてやまないのでしょう。それを手に入れるためなら、どのようなものも利用します。宗教も欲望満足のための手段にします。
子どもの頃に聞いた昔話に出てくる「うちでのこづち」を思い出します。現代のわれわれにとって「うちでのこづち」とは何でしょうか。科学技術? それとも貨幣?
しかし、もし思いどおりになる「うちでのこづち」を手に入れたとしても、その「こづち」をふる人間が育っていないならば、せっかく手に入れた財も健康も人間関係もすべて無駄ごととなり、むしろその人を駄目にしてしまうのではないでしょうか。
戦後日本の高度経済成長の歩みの中にある欠陥が、今噴(ふ)き出ています。人間は多くのものを手に入れましたが、今その人間自身が問われているのではないでしょうか。
本年(1998年)四月には、室町時代に生まれ、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えをひとりでも多くの人に伝えようと苦労された、本願寺第八代蓮如上人(れんにょしょうにん)の五百回忌の法要が京都の東本願寺でつとまります。その蓮如上人は、浄土真宗の利益を「光照(こうしょう)の益(やく)」と言われています。
つまり、〈思いどおりの利益を手に入れることに振り回されて、自己喪失になるならば、豊かな人生であるとはいえない。外に都合のよいものを追い求めるだけの人生は、必ず自分自身を見失う。だから教えの光に照らされて、自分をとりもどし、育てられていくことが一番大事なことである〉と言われているのです。
ひとりの方の問いによって、あらためて河井先生のお言葉を思い出させていただきました。
(岐阜県・寳光寺住職)
