夏本番を迎える前、あるテレビ番組で、今年の水着の流行について語られていました。デパートの水着売場で、レポーターにインタビューをうけている店員が、「今年は若者の間で花柄模様のレトロ調の水着が流行(はや)ります」と答えていました。
まだ売れたわけでもないのに、断定しているのはおかしいと思ったのですが、蓋(ふた)を開けてみると、案の定、海やプールでは花柄模様の水着を着た若者であふれていたのです。このことは、現代という時代状況を如実に物語っているのではないでしょうか。自分で主体的に選ぶ前に、もう決められているのです。すべてがマニュアル化されていて、その中で生きているのですね。
今の若者は、多かれ少なかれ、子どものころから競争社会の中で、すでに敷かれたレールの上を歩んでいます。そして、知らず知らずのうちに、レールからはみ出さないで生きることを良しとし、人と人との深い関係性をもてないで育っていく傾向にあります。だから、じっくり考えたり判断することが苦手で、社会に流されていくのでしょう。常に精神的に不安定で、もろさを内在しています。
私は、二十代の若者からよく相談を受けるのですが、圧倒的に多いのが恋愛の問題です。
恋愛の相談からわかることは、たまには深い恋愛で悩むケースもありますが、他人を愛することを知らずに、自分が愛されることばかりに執着する、いわゆる自己愛に留まって、非常に愛に飢えている場合が多いのです。
これも競争社会の中で育ってきた歪(ゆが)みですね。孤独感に陥(おちい)っている若者がいかに多いかということでしょう。本当の人間関係を開く前に、その孤独感を忘れさせてくれるほど、甘えられる人を求めているのでしょう。まったく自分を見失っているのです。
しかし、とことん話をしていくと、必ずといっていいくらい「本当の私って一体何?」という根源的な問いを求めてくるのです。その時、目先のことに流され、条件面ばかりを追い求めていた若者が、一瞬とはいえ、自分を縛っていた自分の思いから解放されて、明るい表情をみせるのです。ここが非常に大切なところではないでしょうか。
自分とは何かということに目が開いてはじめて、不確かな自分の中に、確かな自分を発見していく機縁となっていくということを若者から逆に教えられるのです。
このことは若者ばかりの問題ではありません。「本当の私って何?」という若者の叫びは、競争社会の中で、常に上ばかりを見て、敷かれたレールの上に生きてきた私たちすべての根源的な叫びでもあるのではないでしょうか。本当の自分を発見できなければ、どんな条件をそろえてもむなしい人生を送ることになるのではないでしょうか。
「自己とは何ぞや、これ人生の根本的問題なり」と教えられているにもかかわらず、我執(がしゅう)と煩悩(ぼんのう)に覆(おお)われて、なかなかそのことに目が開かれません。条件的改良ばかりに奔走する自己自身のありのままの姿を映し出し、「自己とは何ぞや」と問いかけつづけるはたらきを「南無阿弥陀仏」と私は感じています。
(葛飾区・蓮光寺副住職)
