四月八日になるとおしゃかさまのお誕生日「はなまつり」がめぐってきますが、時は三カ月ほど戻って、イエスキリストの誕生日の前夜祭、昨年のクリスマスイブの話です。
午後七時のテレビのニュース生中継で、クリスマス気分を煽(あお)り立てる街頭にて、女性のリポーターが二十代前半とおぼしき女性に、マイクを向けました。「今夜のご予定を教えてくださいませんか?」
女の子「特にありません」
「イブでしょ? 彼氏とかお友達と一緒に過ごしたりはしないんですか?」
女の子「いいえ。わたし、仏教徒ですから」
リポーターを振り払うように街へ消える女の子。
テレビは、クリスマスとか、バレンタインDAYとかになると「可哀想な女の子や男の子」を探すことがあります。いな、よく考えれば可哀想でないのに、可哀想と決めつけるような方向にインタビューの流れを引っ張ります。
それはテレビの勝手として、私の頭にその一言が巡りました。
「わたし、仏教徒ですから」はヨカッタな。うまいこと言うもんだな。そりゃ一人で寂しく過ごすかどうかなんて事実はわからないけど、それのいいわけにしちゃ仏さまに随分ご挨拶だな。彼女が思っている仏教徒って何なんだ等とグルグル思いが巡りました。
こじつけのようですが、しかし「一人」であること、「孤独」であることの自覚として「仏教徒」と名のるのは必ずしも間違いではないのでないかと、その時考えました。
おしゃかさまの言葉に曰(いわ)く、「人間は世間の欲望や執着(しゅうじゃく)の中にあって、独り(ひとり)生まれ、独り死に、独り行ったり来りして、さまざまな縁による行(おこな)いにしたがって、苦しみや、楽しみの場を生きるものである。その身のみが、そのことに直面し、誰も代わってはくれないのだ」
(『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』私訳)だからこそ、本当の友達や愛するものを見つけたいと願うのだなあと思いつつ、名もなき女の子の一言に妙に納得してしまいました。
へんにごまかし、まぎらわすことなく、「ひとり(独り)」であることや「孤独」であることが正面から受け止められたら、人間は独立し、力が出るのかもしれません。落ち込みや、閉鎖指向でない道理として、いのちの尊厳として、「ひとり」に安らげるのなら。
しかし、現実のひとりは寂しくつらい世界だなとも感じます。真実や道理を受け止めきれない自分が見えてきます。
無数の縁につながりあって生きているのが人間であるなら、同時にその一人ひとりはバラバラ、個性的で、本来独立してあることも認め、許していきたいものです。
仏教徒の彼女には、来月、桜の花が満開の頃、おしゃかさまの誕生日を祝ってほしいものです。
(世田谷区・浄行寺住職)
