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3分間法話
  大地の恵みを忘れた自分中心の生活を確かめる

松井憲一
第25回 <1997年1月>
 

念仏は自我崩壊の響きであり、
自己誕生の産声である。
[金子大栄(かねこだいえい)


 「青信号俺が行くまで変わるなよ」
「婆ちゃんも走る先着二十名」

「お隣と行き来あるのは落ち葉だけ」

「遺産分け母を受け取る人がない」

「わが家では家庭円満俺我慢」

 これは、「毎日新聞」に出ていた最近の川柳です。日常生活のすべてが、いかに自分中心で動いているかが、よくわかります。自分中心で動く限り、善悪、愛憎、好嫌でイライラし、イザコザが絶えません。

 ここに「仏法(ぶっぽう)をあるじとし、世間(せけん)を客人=ru=じん(きゃくじん)とせよ」、仏法を自分の中心にすえて世間のことはお客さまにせよとの蓮如(れんにょ)上人の仰せが、響いてきます。「仏法をあるじ」にするとは、法を聞きお念仏のある生活を送れということでしょう。

 日本画家の小倉遊亀さんは、「何も持たぬという人でも天地の恵みは頂いている」といわれました。オリンピックの女子マラソンで優勝したロバ選手は、テープを切った後、大地にキスして多くの人々に感動を与えました。親鸞聖人は、仏さまの願いを大地にたとえられています。

 わたしたちは、日ごろ自分の土台である大地を忘れて暮らしています。大地を忘れて自分を中心にすると、「持つ」とか「持たぬ」とかにすぐこだわってしまいます、「持つ」とか「持たぬ」とかにこだわれば、いかに財産や才能や体力や家族や友人に恵まれていても、どこかに不満やむなしさが残ります。この満腹することのないむなしさのところにあらわれて、底知れぬわたしの誤りに気づいて大地に南無(なむ)せよ、南無阿弥陀仏と申せと呼びかけていてくださるのが、阿弥陀仏の願いであります。それで、「念仏は、自我(じが)が崩壊(自分中心であったと気づくこと)の響きであり、自己(大地と共生する自分)誕生の産声である」と金子大栄先生はいわれました。

 ところが、その拝むことを安易なものとし、お念仏までも我が物としていつのまにか手段化しています。

「焼香に背中つつかれ目を覚まし」

「供養より願い事する墓参り」

「合格後神と仏にご無沙汰し」

「手術前正信偈術後週刊誌」

という川柳のような、お参りやお勤めにしていないでしょうか。大地の恵みを忘れたわたしは、そのことを教えられても、そこに頭の下がるような、気づきがありません。

そんなわたしに、

無慚無愧(むざんむきのこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀(みだ)の回向(えこう)の御名(みな)なれば功徳は十方(じっぽう)にみちたまう「愚禿悲歎述懐和讃(ぐとくひたんじゅっかいわさん)」
親鸞聖人作

と無慚無愧(恥ずかしいとも思わない)の者と告発して、南無阿弥陀仏せしめるのが、親鸞聖人の教えであります。その教えを聞いて、自分の生活を確かめるのが報恩講であります。

(三重県・道專寺住職)


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