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3分間法話
 ありがとうございますとはじめて言えたような気がした
かいほうりゅう
海法龍
第24回 <1996年11月>
 

自分の頭が下ったこと、
下げたのではない、下った心、砕かれた心、
それが如来のお心。人間の心でない。
[安田理深]


 M子は、ごくありふれた大学生だった。なんとなく勉強して、なんとなく大学に入って、なんとなく日々を送る生活。目的も目標も、情熱を傾けるものも見いだせないまま「本当はこんなはずじゃないのに」という気持ちを抱え、毎日が過ぎていった。以前はそれなりに夢はあったのに、なぜかすっかり色あせてしまっていた。今を生きながら、生きているという充足感がなかった。

 ある日のこと。「明日こそは辞めよう」と思いながら、ずるずるとアルバイトをしているホテルの宴会場で、結婚披露宴の新婦側家族のテーブルをサービスする担当になった。母一人、子一人の家庭だった。新婦の母親に式の進行について説明していると、その母親の手が眼に入った。その瞬間、その手に釘付けになった。まだ初老の域にも達していないのに、ひどく荒れたゴツゴツとした手をしている。どんな人生を送ってきたのか知る由(よし)もないが、女手一つでこの一人娘を育てあげて、今日の日を迎えていることだけはわかった。娘の幸せそうな笑顔の背景には、この母親の苦労があった。その手がすべてを物語っていた。

 自分の手をそっと見てみた。白く、か細い手だ。なんの苦労も知らない手だ。なんだか恥ずかしくて仕方がなかった。優しい父親と母親に恵まれていながら、不平不満ばかりこぼし、仕事でも、サービス業にもかかわらず「ありがとうございます」と本気で頭を下げたためしはない。ただ理想の自分と現実の自分のギャップの中で、不機嫌になっていくばかりの私だった。

 涙がポロリとこぼれた。荒れたゴツゴツとした手が、私の今を問い糾(ただ)してくる。新婦の母親は、ちょうど鏡のようになって私の前にいた。その鏡の中で動揺している私がいた。思い通りにならなくて「こんなはずじゃなかった」と思い、意欲が失(う)せ被害者となり、周りを加害者にしてしまう。こんな私から「ありがとうございます」という言葉なんか出て来ようがない。そう思ったとき、全身から力が抜けていくような気がした。

 結婚式もクライマックスを迎えた。なぜか胸が熱くなっていた。幾度となく仕事としてこなした結婚式。おきまりのパターンを見つめながら、いつもくだらなさを感じていた。はじめての経験であった。そこで生き生きと仕事をしている私がいたのだ。今まで、心の奥底に闇の如くうごめいていたわだかまりが、一挙に光の輝きの中に押し出されたような感じがしていた。これが「今」なんだ。これが「私」なんだ。M子は、はじめて「今」と「私」を意識していた。

 式が終わり、M子は新婦の母親に、深々と頭を下げて、少し震えた声で「ありがとうございます」と言った。生まれてはじめて、心の底のわだかまりが突き破れて、「ありがとうございます」と言えたような気がした。新婦の母親が握手を求めてきた。M子はその母親の手をそっと握った。荒れたゴツゴツした手は、いいようがなく温かい手であった。

(神奈川県・長願寺住職)


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