ジハードという言葉が湾岸(わんがん)戦争のときに使われた。これは、イスラム教徒の異教徒に対する聖なる戦いという意味だそうだ。
湾岸に送られた米軍の兵士たちもまた、聖書からの抜き書きを身につけて戦ったという。戦争という愚かな行為には、いつでも〈宗教〉というものがつきまとうようだ。だから「宗教は恐ろしい」といわれている。
米軍が参戦するには米国内の世論を変えなければならなかった。ある人権委員会での虚偽の証言が空気を変えた。「私がクェートの病院にいたとき、兵隊が来て保育器の乳児を床(ゆか)に叩(たた)きつけて殺した」という涙ながらの大芝居である。この真実ならざる証言は、ヒューマニズムの正義感を煽(あお)り、さらに〈非人道的なモノ〉と裁定した敵の、殺戮(さつりく)の正当化の後楯(うしろだて)を〈宗教〉に担わせたのである。
日本国内でも、記憶に生々しいオウムの大事件が起こり、世界中の関心が注がれているさなか、次々と〈宗教〉絡みの事件がくりかえされた。
〈宗教〉が、人の心の弱みにつけこみ、人を屈従(くつじゅう)させる教義や規範を押しつけたり、政治的な神々への信仰で民族や国家を牛耳(ぎゅうじ)るために利用されている状況がある。だから、「宗教は恐ろしい」という。
それほどに恐ろしがられる〈宗教〉というものが、日本の風景にはしっかりと定着している。不思議なようだが、正月の初詣(はつもうで)を見ればうなずかざるを得ない。
オウム事件以前は、どのテレビ局でも「国民の三分の二が初詣」することを挙げて、日本人の〈宗教〉心の篤(あつ)さを称賛していた。そこでいわれる〈宗教〉とは、自分の〈思い〉を神仏に頼んでかなえてもらうこと、と考えられていることが示されている。
〈思い〉にそぐわぬ現実を変革することが救済だとして、金力・権力・武力・科学技術力などを崇拝する信仰もある。その力を持たぬ弱者が神仏に依存するのだ、と嘲(あざけ)る人もいるようだが、〈思い〉は同じことだ。ともかく、正月早々から九千万もの人々が自分の〈思い〉を神仏に祈願することで、〈思い〉に執着して生きることを正当化するのであれば、恐ろしいことである。
だが、ままならぬ人生の事実が〈思い〉を揺るがすとき、現世的幸福も輝ける暗鬱(あんうつ)に変わる。そうした《人間》観を揺さぶる問いは、出口なしの地獄と決めて躱(かわ)してしまう。
湾岸戦争といい、オウムといい、初詣といい、〈思い〉を通すために〈宗教〉を利用する《人間》というものが、本当はいちばん恐ろしいのではあるまいか。
そんな危なっかしい私たち《人間》のために真宗仏教が相続してきた教えは、「なにものをも恐れず、なにものにも従属しない、いのちの尊厳と平等を回復する学び」ということではなかったか。
すでに仏の大悲の願いは、〈思い〉を拝み、ひとつ間違えば、生きてあることの意味を踏みつけにしかねない私の上にまで、かけられていたのです。
(世田谷区・乗満寺副住職)
