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3分間法話
  空しい人生を送らないために

竹中智秀
第21回 <1996年5月>

 蓮如(れんにょ)上人に「白骨(はっこつ)の御文(おふみ)」があります。真宗門徒であれば、身近なものが死去すれば火葬にし、お骨となって帰ってきた時、必ずこの白骨の御文が拝読されていますから、何度となく耳にしていることです。

 誰でも「死のない生」ではなく「死のある生」を生きているのであり、「生死無常(しょうじむじょう)の身」であることを、道理としても、また、事実としてもよく知っています。しかし、そのことをどう問題にしたらよいのかがわからないのと、そのことを問題にしている間(ま)がないほど、社会の中での生活が、その生存競争がきびしいのです。そこにはいつでも社会的死の危機があって、その「社会的死」が「道理としての死」とか、「事実としての死」とかより以上に、現実的な死の問題として、それこそ恐怖としてあるのです。それは仲間はずれの問題とか、いじめの問題とかという社会現象にまでなっています。

 最近の子どもたちは「死にたいと思ったことがあるか」の問いに、三割近くもが「思ったことがある」と答える、といわれています。どうしてそう思うのかについては、「僕がおってもおらなくても同じではないか。誰も、僕を必要としていないのではないか」と、思ってしまうからのようです。このことは子どもたちだけの問題ではなく、それは私たち自身の存在理由、存在根拠に関わる問題です。

 現代は極度に科学が進み、社会の構造そのものが機械化され、機能化され、組織化されてきて、そのため専門的な知識なり、技術なりがつねに必要とされ、その社会の中で間にあうのか、間にあわないのか、私たちのその能力が問題とされていて、「あなたの存在そのものが必要なのです」ということではないのです。そこでは無有代者(むうだいしゃ)の存在としての人間が、有代者の存在として、非人間化され、物化(ものか)されていて、より間にあうものが徹底して選択されているのです。そのため、私たち自身の存在理由、存在根拠がその社会を前提にしてしか、成り立たなくなってきているのです。

 子どもたちはそういう中で育てられてきて、誰からも「あなたの存在そのものが必要なのです」と、声をかけられた原体験がないのでしょう。だからこそ、「誰も、僕を必要としていないのではないか」と思う時、社会的死に追いつめられ、死にたいと思ってしまい、自殺しかねないのです。それはもはや子どもたちだけの問題ではないのです。

 仏道のはじめは、私たちが、道理としての死、事実としての死をよく知り、よく見きわめて、その生死無常の身をどう生き、どう死ねばよいのかを問うことからはじまります。その時はじめて、私たちは生きることに、真実に帰依(きえ)して生きる生き方と、そうでない生き方との差異があることを知ります。そのためにもまず私たちは身近なものの死に対面し、その白骨を見きり、死の原体験をもつことによって、社会はどうあれ人間として生きることを選ばねば、その生は「空過(くうか)の生」となります。

(大谷専修学院長)


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