世界はいま、家を追われ国を追われ、食べる物なく、飲む水もなく、飢えとかわきに苦しみながら、足もとの乾いた大地に倒れてゆく人々が何と多くいることか。その祈りも願いもうばいとられ、生きる意志までおしつぶされて、絶望のうちに地にうずもれる人々がいかに多くいることか。差別され、ことばをうばわれ、むなしく手をさしだしたまま、人々は果てしない苦しみの中で死んでゆく。
物があふれ、金(かね)さえあれば何でも手に入れられる今を、私たちは最高の極楽浄土(ごくらくじょうど)に生きてるように勘ちがいしているのではないのか。自分のことばかり、自分の社会のことばかり考えていいつもりになっているが、わずかでもいい、視界を拡(ひろ)げたら、この世界が浄土どころか、おそろしい地獄の真っただ中におちていることに気づかされるのではなかろうか。苦しむ者が一人でもいる限り、絶望する者が一人でもいる限り、そこから目をはなしてはいけない、と仏の教えを聞いたのではなかったか。
明日(あす)のわが身がどうなるのか、知っているとも思われない者が、他人さまの未来を占い、運命鑑定と称して金(かね)を手に入れている。先祖や死者の霊がとりついたための不幸・不運などとおどしをかけて、因縁(いんねん)除霊(じょれい)だとか浄霊(じょうれい)のご祈祷(きとう)だとか言いたてて、金もうけをしている者もいる。あるいはまた、われこそキリストの生まれかわり、お釈迦さまの生まれかわりだなどと勝手な妄想にとりつかれ、すっかりその気になって、思い上がっている者もいる。
現代は、ご祈祷・占い・まじない・霊能者・予言・世の終わりなどのことがらが、宗教の専売特許になっているように見うけられる。何教かは知らないが、それもそのような宗教といっていいのかも知れない。だけれども、一つだけはっきりしていることがある。それはシャカムニ・世尊の説かれた仏法ではない、ということだ。
一切の生きとし生けるものを、差別なく、区別なく、平等に、自由に解放する祈り・願い、それが真実の仏法ではなかったか。仏の真実の願い(本願)へ向けて人々が解放(ネハン)されない限り、わが救いもなしとする浄土の祈りを、私たちはどこで忘れて来てしまったのだろう。
人は最後の息をひきとるまで、人間を超えた人間以上の者になることはない。最後まで人間のままなのだ。だから、予言やら超能力や霊能者などのことは、不要の妄想なのだ。
また、ご祈祷に夢中になろうと、占いやまじないにすがりついてみても、そのようなことで人間が、世界が救われるということはないのだ。あるいは、世界が終わるのか終わらないのか、そんなことが問題なのではない。正しい信仰・真実の信心にうなずくことがなければ、世界が終わる以前に、このわが身が終わってしまうにちがいない。
(板橋区・即得寺住職)
