私たちの生活の中の一つの要求として、延命したいということがある。そのため死にまつわることを自分の身の回りから排除しようとする。
葬儀の時の「清め塩」や火葬場での「清め酒」などは、死の穢(けが)れとそこから派生する霊の祟(たた)りを我が身に受けないために行っている。また、病気や災いも霊の祟りであると考えるが故に、除霊(じょれい)の祈(き)とうなどをするのであろう。しかし死は、誰しも、否定も排除もしえない冷厳な事実であり、それを排除しようとするのだから、当然そこには精神的苦悩や肉体的苦痛が生じてくる。釈尊が「生(しょう)老(ろう)病(びょう)死(し)」を四苦(しく)と呼び、苦の根源とした理由もここにある。
このような生き方をしている私たちに、清沢満之先生は、
『我等は生死を並有するものなり。』と、生きることだけが私ではない、死もまた私自身なのだと、ご教示してくださっている。延命に右往左往し、疲れはてて、やがて死を迎える私たち。どれだけ延命の方法を行い、死を回避しようが、排除しようが、私たちの命そのものに死という厳粛な事実があることを明確に示しておられる。
四苦が私たちの苦悩の根源といったが、生・老・病・死が私たちを苦しめるのではない。生・老・病・死という「自然」を私たちがどうにかできるという幻想をもつから苦しむのである。私自身の幻想で私自身が苦しむのである。さらに現代は、理性をたのみ科学を進歩させて、その幻想に拍車をかけている。
苦悩している現実から救われることを願いとして生きているにもかかわらず、迷いの底無し沼にどんどん深く引きずりこまれていくのは、私たちのもつ所有欲という煩悩に端を発しているのだろう。言い換えれば、私有化してはならぬ命を私有化しているからである。
『生死は全く不可思議なる他力妙用によるものなり。』
「生死は私たちの自由にできるものではない」と清沢先生は示され、深い命への目覚めこそが、生死の苦悩から解放する道理であると念仏相続された。
生死については、人間のこざかしいはからいをすてて、すべて如来におまかせする。いずれは死を迎えなければならぬ自己の生を正しくみつめ、本願の大地に足をおろして、自由なる精神のもとに生ききっていく。これが救われて生きる念仏者の歩みである。
(台東区・福成寺住職
